真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」

決して「卑怯なだまし討ち」ではない
神立 尚紀 プロフィール

「全面戦争になれば勝てるはずがない」

真珠湾攻撃と言えば、猛訓練で鍛え上げられた搭乗員たちがまなじりを決して飛び立ったようなイメージが強いが、実際には、飛行練習生を終えて1年未満の新人が4分の1近くを占めていて、本島さんのように、アメリカとの開戦に懐疑的な人も少なくなかった。

 

空母「翔鶴」零戦隊の一員として、真珠湾攻撃当日は機動部隊上空哨戒にあたった佐々木原正夫さん(当時・二等飛行兵曹)も、出撃前の11月23日、艦長・城島高次大佐より真珠湾攻撃の作戦計画が伝えられたときのことを、

「飛行甲板で、若い戦闘機分隊士の飯塚雅夫中尉にききました。『開戦をどう思いますか。勝つんですか、負けるんですか』と。『私にもわからない。作戦は理解できたが、勝つか負けるかまでは皆目見当がつかない』というのが、飯塚中尉の答えでした。私は、勝算があって始めるんならいいが、士官にもわからないような戦争をどうして始めるんだろう、と疑問に感じたのを憶えています」

と、回想している。

「翔鶴」零戦隊の佐々木原正夫二飛曹(のち少尉)

指揮官クラスのなかにも、第二次発進部隊制空隊指揮官として零戦35機を率いて参加した進藤三郎さん(当時・大尉)のように、

「昭和8(1933)年、少尉候補生として、遠洋航海でアメリカへ行ったときのことを思い出しました。西海岸だけを見ても、国土は広いし、街は立派だし、あらゆるものが進んでいる。ロサンゼルスに上陸したとき、移民として向こうに渡った同級生が、自動車で迎えに来てくれたのにも驚きましたが、現地の日系人が自家用飛行機に乗せてくれたのにはもっと驚いた。日本では、自家用車でさえ限られた一部の人のものだった時代ですからね。

恐るべき国力。こんな国と戦争しても、局地戦ですむならともかく、全面戦争になれば勝てるはずがない、というのが率直な気持ちでした」

と、アメリカを知ればこそ、先行きを危惧していた人もいる。これは、戦前、遠洋航海を通して世界を見る機会のあった海軍士官として、ごく常識的なものの見方でもあった。

「赤城」戦闘機分隊長・進藤三郎大尉(のち少佐)

真珠湾攻撃の一年以上前に、すでに将来の敗戦を予言するかのような言葉を残した指揮官もいる。空母「蒼龍」戦闘機分隊長として、第二次発進部隊のうち零戦9機を率いた飯田房太大尉である。

日本と中華民国との戦争が泥沼化していた昭和15(1940)年10月、飯田大尉は、中国大陸の漢口基地を拠点に、第十二航空隊の零戦隊を率いて成都を空襲、中国軍機を圧倒し、部隊は感状を授与された。だが、部下だった零戦搭乗員・角田和男さんによると、祝勝ムードのなか、飯田大尉は一人浮かぬ顔で、

「こんなことでは困るんだ。奥地空襲で全弾命中、なんて言っているが、重慶、成都に60キロ爆弾1発を落とすのに、諸経費を計算すると約1000円かかる。相手は飛行場の穴を埋めるのに、苦力(クーリー)の労賃は50銭ですむ。実に2000対1の消耗戦なんだ。こんな馬鹿な戦争を続けていたら、いまに大変なことになる。感状などで喜んでいる場合ではないのだ」

と、周囲にこぼしていたという。

蒼龍」戦闘機隊分隊長・飯田房太大尉(中央)

攻撃隊員のなかにさえ、無謀な開戦に疑問を抱き、出撃直前まで、外交交渉での戦争回避に望みをつなぐ者がいたことは記憶されていい。しかしそんな個々の思いを呑み込んだまま矢は放たれ、日本は世界を相手に戦う道を選んだ。