1941年12月8日、日本軍機の攻撃を受けるハワイ・真珠湾軍港

真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」

決して「卑怯なだまし討ち」ではない

77年前の今日、12月8日(日本時間)。ハワイ、オアフ島の真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊に、日本海軍の航空母艦を飛び立った350機の攻撃機が襲いかかった。

わずか2時間たらずの攻撃で、ハワイにあった米艦隊と航空部隊を壊滅させるという大戦果を上げ、日本の航空部隊の優秀さを世界に示した。しかし、日本中が開戦の勝利に沸き立っていても、攻撃作戦に参加した搭乗員たちは、決して浮かれてはいなかった。

戦後50年以上を経てはじめて、彼ら搭乗員たちが語った本音とは……?

 

作戦参加搭乗員765名の8割が終戦までに戦死

「真珠湾攻撃の計画を聞かされたときは、私なんか作戦の中枢にいるわけではありませんから、ああ、いよいよやるのか、ずいぶん訓練やったからな、とそれだけでした」

と、本島自柳(もとじま・じりゅう)さんは静かに語り始めた。真珠湾攻撃60年を目前に控えた2001年初夏のことである。

本島さんは戦後、医師となり、改名して群馬県太田市で総合病院を営んでいたが、旧姓名「大淵珪三」、空母「赤城」乗組の中尉として、九九式艦上爆撃機(九九艦爆、2人乗りの急降下爆撃機)に搭乗、24歳のとき真珠湾攻撃に参加している。

「しかし、私はね、攻撃の前の晩寝るまで、『引返セ』の命令があると思っていました。日米交渉がうまくいったら引き返すこともあり得ると聞かされていたし、こんな簡単にアメリカ相手の大いくさを始めていいんだろうか、そういう感じは持っていましたからね」

「赤城」艦爆隊の大淵珪三中尉(のち少佐、戦後、本島自柳と改名)

昭和16年(1941)12月8日、日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られて、今年、平成30年(2018)12月8日で77年になる。

あの日、日本海軍の6隻の航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、わずか2時間たらずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。

真珠湾攻撃に向け航行する空母「加賀」(左)と「瑞鶴」(右)
出撃前の空母「瑞鶴」の搭乗員たち

アメリカ側は、戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上をかぞえた。

いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)だった。

しかし、この真珠湾の「大戦果」は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったことから、「だまし討ち」と喧伝され、かえってアメリカの世論をひとつにまとめる結果となってしまった。

「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月におよんだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。

真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、および予備員の人数はふくまず)。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。

真珠湾攻撃から50年後の平成3(1991)年、生き残り搭乗員がまとめた名簿では、ちょうど半数にあたる74名の住所氏名が記されているが、60周年の平成13(2001)年にはそれが30数名になり、77年を経たいまは数名(筆者が承知しているのは2名)を数えるのみである。

私は戦後50年の平成7(1995)年以来、主に旧海軍の航空関係者数百名へインタビューを重ねるなかで、真珠湾作戦に参加した全ての機種の元飛行機搭乗員12名と、数名の元空母乗組員から生の声を聞くことができた。冒頭の、本島自柳さんもその1人である。

さらに平成13年(この年、9月11日にニューヨーク同時多発テロがあった)12月の真珠湾攻撃60周年記念式典にも、空母「蒼龍」の元零戦搭乗員・原田要さん(当時・一等飛行兵曹)や、空母「飛龍」雷撃隊(九七式艦上攻撃機)の丸山泰輔さん(当時・二等飛行兵曹)、空母「赤城」艦爆隊(九九式艦上爆撃機)の阿部善次さん(当時・大尉)ら、元搭乗員たちと参列している。

驚いたことに、すでに歴史上の存在である「パールハーバー・アタッカー」のハワイでの人気はすさまじく、ホノルルの陸軍博物館の売店では原田さんや丸山さん、阿部さんのブロマイドが1枚6ドルで売られ、行く先々で無邪気にサインを求める人々の長い列ができた。私たちの接した限りのアメリカ人は、日本の元軍人に対してもアメリカの退役軍人と同じように敬意を持って接し、そこにはもはや敵愾心は感じられなかった。

だがその後、作戦に参加した関係者も高齢化とともに次々と鬼籍に入り、あの世界史的にも大きな出来事を、当事者の視線から多角的に論証することはもはや不可能となった。そこでここでは、すでに故人となった真珠湾攻撃参加搭乗員へのこれまでの取材のなかから、あまり表に出ることのなかった搭乗員の「本音」の言葉を拾い集めてみたい。