明治政府に睨まれ、野間清治が出会った「新企画と天才編集者」

大衆は神である(30)
魚住 昭 プロフィール

新聞で本当に読まれているのは……

さらに、これから述べる話を読んでいただければ、彼の編集センスが清治の出版事業の発展にいかに貢献したかお分かりになるだろう。以下は望月の証言である。

そのころ、望月と同じ国民新聞の校正部に伊藤源宗(げんそう)という山形県出身の男がいた。伊藤と望月の住まいは同じ市ヶ谷方面だったから行き帰りの市電でよく一緒になった。

 

ある日、帰りの車内で望月が伊藤に言った。

「車内で国民新聞をもっている乗客がどこを読むかを見ていると、大抵の者が渡辺黙禅(もくぜん)の書く講談みたいな小説を読んでいる。新聞で本当に読まれているのは、実は(国民新聞社主の)徳富蘇峰の書く論文じゃなくて、渡辺黙禅の小説じゃないだろうか」

渡辺は当時の人気作家で、のちに大衆小説の先駆者と言われるようになる。望月がつづけた。

「博文館から文藝倶楽部という雑誌が出ている。本誌そのものは売れないらしいが、年に何回か出る増刊は講談とか落語を主にしたもので、非常に売れているようだ。ああいう雑誌を出したら読まれるかもしれないな」

それを聞いて伊藤が即座に反応した。

「どうだろう。われわれも一つ、その雑誌をやって、新聞社なんかやめようじゃないか。つまらないから。しかし、やると言ったって、(雑誌を発行する)金を持っているわけじゃない。僕は佐久良(さくら)書房の親爺を知っているから話してみよう。君は、誰か知っているか」

「俺は野間清治を知っている。それじゃ、手分けしてあたって、どっちでもいいから、話に乗ってきたほうに食いつこうじゃないか」

早速、伊藤が佐久良書房の社長に話すと、「だめだ。そんな雑誌を出すのはご免だ」と断られた。その報告を受け、望月は清治に相談を持ちかけた。すると清治は、

「それは非常に面白いな。望月君、やろうじゃないか。雑誌は3000部売れれば、そろばんがとれる。やろう、やろう」

と、飛びついた。理由はいうまでもない。清治が通俗教育調査委の発足を契機に思いついた新雑誌のイメージと、望月の企画がぴったり一致したからである。

註1:倉内史郎「明治末期社会教育観の研究:通俗教育調査委員会成立期」(『野間教育研究所紀要』第二〇集)より引用。