明治政府に睨まれ、野間清治が出会った「新企画と天才編集者」

大衆は神である(30)
魚住 昭 プロフィール

「……これを読むことに依って、一般大衆は、精神的の慰安を得、修養も出来、読書力も文章力も常識も、その他いろいろのものを養うことが出来る。(略)

……現に自分の如きは仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌の八つを、『八犬伝』によって教えこまれ、これが自分の血の中にとけ込んで、自分の云為(うんい、言うことと行うこと)行動を律している。その効果は、思いの外大きく深く強いものがある」

そこで、これらのものを総纒めに纒めて、雑誌として出版しようと思いついたのであります。(略)〉

清治が考えたのは、民衆教育のための新しい雑誌だった。単に娯楽や慰安のためではない。「修養も出来、読書力も文章力も常識も、その他いろいろのものを養うことが出来る」教育的雑誌である。これなら『雄弁』のように当局の圧迫も受けず、広範な大衆に読んでもらえる。

別の言い方をすると、清治は社会主義思想の蔓延を防ぐため明治政府が打ち出した民衆教育政策に順応し、それを自らの事業に取り込もうとしたのである。

 

望月茂という男

ただ、清治は一人でこの企画を立てたわけではない。ちょうど文部省が通俗教育調査委を立ち上げたころ、団子坂の家に出入りするようになった20歳すぎの青年がいた。
名前は望月茂(号は紫峰=しほう。のちに小説家・評論家)。茨城県出身で、鹿児島の第七高等学校を中退後、徳富蘇峰(蘆花の実兄)が経営する国民新聞の校正部で働いていた。

望月は文才があったが、おそろしく無遠慮でわがままだった。

当時、野間家に居候(いそうろう)していた安元碧海(清治の沖縄時代の教え子)の回想によると、望月が清治と話しているとき、お昼の時刻になったので、清治が女中を呼び、蕎麦を2人前分4つ取り寄せるよう言いつけた。

並の人間なら「お昼はすませてきましたから、どうぞお構いなく」と遠慮するところだが、望月は目の前で女中が蕎麦屋に電話をかけるのを見ながら、知らんぷりしていた。

そのうち蕎麦がきた。清治が自分で箸をとりながら「さあ、何もありませんけれども、お蕎麦でもどうぞ」と勧めると、望月は「僕は、蕎麦は嫌いです」と言って、見向きもしない。

これには清治も呆気(あっけ)にとられたようだったが、

「そうですか。では、何を差し上げましょうか、ただのご飯ならありますけれども」

と言った。すると望月は、

「いや、僕は何も食べたくないです」

と、答えて平然としていた。

望月が団子坂からの帰り際に雨が降っていると、左衛が気を利かせ「これはお返し下さらなくてもよいですから」と言って傘を貸してやった。望月は「そうですか」と言ってその傘をさしていくが、ついぞ返した例(ためし)がなかった。

「この間の傘はどうした?」と安元が訊くと、望月は「ウン、あれか。奥さんが要らないと言ったからどこかに置いてきた」と答えてしゃあしゃあとしている。望月は雨が降っている間は傘を大事にしてさすけれども、途中で晴れると、どぶの中へでも捨ててしまうのである。

それでも、清治は望月の才能を愛した。清治が初めて手がけた単行本『明治雄弁集』(明治44年9月刊)が好評を博したのは、望月の力量に負うところが大きかった。