明治政府に睨まれ、野間清治が出会った「新企画と天才編集者」

大衆は神である(30)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

金策に困りながらも、野間清治が多くの人を巻き込み創刊した弁論雑誌『雄弁』は、創刊直後から売れに売れた。しかし、創刊から3ヵ月半後に起きた「大逆事件」の影響で、大打撃を受ける。清治は、そこからいかにして立ち上がったのか。

 

第三章 大逆事件と『雄弁』、そして『講談倶楽部』─「冬の時代」に(3)

済生会創設の背景

時代は閉塞していた。明治国家の体制整備が進み、権力の網の目は社会の隅々にまで張りめぐらされていた。清治の出版事業も「折角ふいた新芽を二葉にして摘んで了ふ」ような圧迫に苦しめられていた。この状況を乗り越えるにはどうすればいいのか。

局面打開のヒントを与えてくれたのは、皮肉なことに、『雄弁』を締めつけた明治政府だった。

もう一度、「社会破壊主義論」を思い出していただきたい。山県有朋はその中で、社会主義対策として、社会政策による感化誘導と、穏健な思想・国民道徳の涵養の二つを挙げていた。

まず、社会政策の一環として打ち出されたのが、貧病者を救済する施療院(済生会病院)を全国の主要都市に作ることだった。山県腹心の内相・平田東助の発案である。

済生会病院構想は、秋水らの処刑の印象がまだ鮮烈な明治44年2月11日の紀元節(いまの建国記念の日)に「施薬救療以テ済生ノ道ヲ弘メムトス」という天皇の勅語として発表され、天皇の恩賜金150万円が病院建設資金として拠出された。

これに加えて財界から半ば強制的に寄付金が集められ、さらに官吏の俸給の一部も徴収された。貧病者救済の姿勢だけでもちゃんと示さなければ、社会主義思想の蔓延は防げないという危機感の表れである。政府の思惑は民衆に見透かされ、こんな川柳が人々の口の端に上った。

「病人は 幸徳さまと ソッと云ひ」

国民思想善導の方法

もう一つの社会主義対策、つまり穏健な思想・国民道徳の涵養の手だてとしてクローズアップされたのが、通俗教育である。通俗教育とは、学校教育以外に一般民衆向けに行われる社会教育(あるいは生涯教育)を意味している。

山県腹心の文相・小松原英太郎は明治44年1月の衆院予算委員会で、大逆事件に関し「国民堕落調査」に着手すべきではないかとの質問を受け、「一般国民をして教育勅語の主旨を了解せしむるは至要の事」で、そのためには「社会教育(通俗教育)を全うする要」があると述べた。

そして同年5月、文部省に通俗教育調査委員会(委員長・岡田良平文部次官)を発足させた。学界、政界、新聞界の識者を集め、国民思想善導の方法を諮ろうというのである。

文相官邸で委員たちの招待会が開かれた。小松原はその席上、維新前の「忠孝節義又は勧善懲悪」を説く「稗史(はいし)小説」や、忠勇義烈・孝子節婦(こうしせっぷ)の美談を語る講談などが「我国固有の道徳教育」に役だった例を挙げながら、国民の「精神的方面向上」の必要を力説した。(註1)

こうして、民衆教育のツールとしての講談に光が当たった。講談はそれまで、教育程度の低い民衆の娯楽や慰安の対象としか考えられていなかったのだから画期的な変化である。

大の講談好きで、しかも東京帝大法科の首席書記という文部省直結のポジションにいた清治は、この変化を敏感に察知した。『私の半生』で次のように述べている。

〈当時、文部省に於ては、所謂(いわゆる)民衆教育の必要を感じ、その運動に乗り出して来た。つまり、在来の学校教育とは別に、一般大衆の通俗教育をしなければ、という考えの下に、いろいろ計画されていた。一般大衆に対し、如何にして、立憲的、愛国的の教育を促進すべきかが、その中でも重要な問題であったらしい。(略)

私共は言った。

「今日、寄席芝居等の外に、これら重要の役割を持っているものに何があるか。一般民衆に、忠孝仁義の大道を打ち込み、理想的日本国民たらしむべき適当な機関として何があるか」(略)

更に又、こんなことも言った。

「あの沢山ある講談の或る種のものを読物にしたら、民衆教育の絶好の資料となるのではなかろうか」(略)