ドラマ『昭和元禄落語心中』が描く落語家の「凄まじい色気」

通も演者たちの姿に唸った!
堀井 憲一郎 プロフィール

早る気持ちもわかる。

ひとつは、自分の感銘を「とにかく早く伝えたいから」だろう。

いまの一席はとてもよかった、感動した、という心持ちから、いち早く拍手でそれを演者に強く伝えたい。そういう気分になるのはわかる。

もうひとつは、このへんが落語好きの面倒なところなのだが「ここがサゲだ、これで終わりだと、いち早く知らせたい」という意味不明の気持ちでかぶせて叩いてしまう、というものである。

一番最初に手を叩き始めたい、とおもってるおっさんがいるってことだ(だいたいおっさんである)。

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人より落語を知ってるという心持ちや、知らない人にいま終わったぞと早く教えたいという気持ちも込め、人より早く叩き始めようとする。きわめて哀しい行為なのだが、こういう人がいなくなることは、まずない。

それが落語の現場である。

ドラマでは、落語家がサゲを言い終わったあと、余韻を噛みしめるような2秒ほどの空白があって、観客もその間を味わって、ようやっと万雷の拍手が起こるというような夢のようなシーンが見られる。すばらしい。

『芝浜』のときがそうだったし、ドラマ前半でよく演じられていた『死神』もそうだった。『明烏』もサゲのあとに間を取っていた。

いつか、そういう落語を見てみたい。

山崎育三郎のサゲは、どこが「特別」か

どうでもいいことながら、落語の「オチ(サゲ)」というのは、落語ではあまり重要なものではない。

イメージとして、「落語」というから、最後の「落ち」で話のすべてがひっくり返るとか、氷解するようなものを想像してしまいがちだが、そういうものではない。

『時そば』や『看板のピン』『肝つぶし』のように、落ちで話が終わり、その落ちそのものを変えることができない落語はあまりない(いま必死でずらっとおもいだして、やっと3つおもいだしたくらいだ。夢落ちと小咄ぽいものをのぞくと、あまり存在していない)。

だいたいお話の本筋と関係ないところで、ダジャレを言っておわる、ということが多い。

 

サスペンスドラマは、犯人を逮捕して犯罪を解説したところでいきなり終わることはなく、そのあとの後日談なり、捜査側ののんきな風景なりが少し流れて終わるのと同じである。

落語の落ちも「無駄なように見えるエンディング」を受け持ってるだけである。落語の落ちはほとんど意味がないことが多い(「芝浜」も落ちがなくても話は成立する)。

だから、繰り返し聞いてる客の多い寄席などでは、サゲに対してあまり期待もなく、さほど力を入れて言われることも少ない。

山崎育三郎くらい、あれくらい力を入れてサゲのひとことを言って欲しいとおもうのだが、実際は怖くてできないだろう。だだすべりにすべりそうだからだ(ただ客が引くということだが)。あれぐらい間を取ると、サゲで色気が発散してくる。とてもすばらしい。

落語は何を楽しむものか、に踏み込むドラマ

このドラマで扱われている落語は、向こう受けのする大ネタが多い。

前座噺として『寿限無』『たらちね』『出来心』が扱われていたが、それ以外は、大きなネタばかりだった。

『死神』『たちきり』『野ざらし』『鰍沢』『品川心中』『黄金餅』『夢金』『明烏』『居残り佐平次』『子別れ』『芝浜』『大工調べ』。

どれもストーリーそのものが面白い大ネタである(「野ざらし」だけはそれほどの大ネタではないけれど、まあ、幽霊は出てくる)。

そんなに寄席で掛かるわけではない。ときどき聞くことがあるかも、というぐらいである(野ざらしはよく聞きます)。

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落語は、同じ噺を何度聞いてもおもしろい、というところに特質がある。

ドラマでも、落語が始まったとたんに「あ、死神だ」「しばはま?」「あのやろう!(居残りなんざ掛けやがって許さねえ)」などとのリアクションがあったが、最初のほうのセリフや、ときにはそれ以前の前振りで(マクラで)何のネタかだいたいわかってしまう。

つまり始まったとたん、この噺はどういう展開してどういう結末を迎えるかは知っている(そういう頭のまわしかたをするととてもつまらなくなるので、そういうふうには現場では考えないのだが)。

ネタによっては、ほぼ、すべてのセリフを覚えていることもある。子供のころから落語を聞いているとそういう客にできあがってしまう。

それでも楽しいのが落語なのだ。「ネタバレを嫌う感覚」と真反対のところにある。

楽しいのは、演者を見てるからだ。