Photo by iStock

外国人労働者を頼り、低賃金・低成長に陥った「IT下請け」の誤算

日本人がベトナムの労働者と競う時代

日本のIT「周回遅れ」の根源は何か?

安倍政権が、今臨時国会で出入国管理法(入管法)の改定案成立を急いでいる。

この改定案では、「相当程度の知識または経験」を有することが条件となる「特定技能1号」(在留期限は通算5年)と、「熟練した技能」が必要な「2号」(条件を満たせば永住可能)の在留資格を新設するという。農漁業や建設業、介護など人手不足が深刻な14業種について、外国人労働者の受入れを拡大するのがねらいだ。

劣悪な環境で時給400円以下の長時間労働を強いられ、7000人を超える外国人技能実習生が失踪しているという実態が表面化したのは、法案審議の成果と言えなくもない。だが、問題の大元にメスを入れず、採決を急ぐのはいかがなものか。外国人に頼るより、若者が人手不足の業界にも魅力を感じるような待遇改善、女性と高齢者の就労機会拡大が先ではないか。

というのは、筆者が取材の軸足を置くIT業界はこの20年、ソフトウェア受託開発業務で外国人の力に依存してきた。かつてのIT業界では、外国人労働力は人手不足とコスト圧縮を一挙に実現する、まさに一石二鳥の解決策と考えられていた。そう、現在のように――。

ところがそのおかげで、日本のソフトウェア開発は、周回遅れどころか世界の潮流に完全に取り残され、ほとんど回復不能な状態に陥っていると言っても過言ではない。なぜこのようなことが起きたのだろうか?

 

1985年、日中が結んだ「ある協定」

ソフト開発業における「外国人労働力」とは、プログラミングやデータ入力の仕事を海外に発注する、いわゆる「オフショア開発」を指している。具体的な発注先は韓国、中国、フィリピン、ベトナム、インドネシア、ミャンマー、バングラディシュなどだ。1990年代末から2010年ごろまでは韓国と中国が中心だったが、最近は東南アジア諸国にも広がっている。

ソフト開発業務は技能実習生制度の対象ではないし、海外に建設した工場で現地の人を雇用して生産するのと、海外から来た人に働いてもらうのとはずいぶん違う、ということは承知している。

ソフト開発の場合は、現地に工場を建てるわけではない。日本国内で受注した開発案件を、海外の事業所や現地企業に委託することになる。

分かりやすくいえば、現地事務所に通訳を兼ねたマネージャーとして「ブリッジSE(システムエンジニア)」を置き、業務を現地企業に再発注する。プログラムの作成を受注する現地企業は、プログラミング(コーディング)ができるコーダーを数多くそろえる。国際分業が利益の源泉は、もちろん日本企業と発注先現地企業の賃金格差――為替差益と同じ原理だ。

ちなみに、米国では「プログラマー」は「システム設計もできる高度なプログラミング技術者」を指す。それに対して日本では、実務経験1~2年、プログラミング言語を使う(コーディング)がやっとというような初級技術者でも「プログラマー」と呼ばれている。こうした人材は、海外では「プログラマー」ではなく「コーダー」と言われる。

さて、なぜIT企業は、他業界に比べていち早く外国人労働者に目をつけたのだろうか。

端緒は、1985年に結ばれた「日中ソフトウェア協定」にさかのぼる。

1980年に入り、相次ぐ大規模なオンライン・システムの開発を背景に、「このままだと、西暦2000年にソフト開発人材が97万人も不足する」と喧伝されるようになっていた。

同協定は、表向きは日中両国の業界団体が取り交わしたものだが、背後に政府間合意があったのはいうまでもない。

そのスキームは、(1)中国政府が研修生の身元を保証し、(2)日本の民間企業がOJTで技術研修を実施し給与を支給、(3)研修生の日本滞在中は、彼らの転職(転社)と第三国への出国を制限する――という官民合同のプロジェクトだった。協定にもとづき、日本は中国の学卒者を毎年100人前後、3~5年の期限付きで受け入れた。

日本をジャンプ台に、渡米を目論んだ失踪事件は発生した。ただ、受入れ先の企業で差別やいじめがあったという話は、少なくとも当時は聞いていない。自社で育てた中国人技術者の中には、帰国後に受け入れ先企業の現地法人を設立し、日本企業の中国人採用に貢献するケースも現れた。1989年6月に勃発した天安門事件で一時中断したが、その後1995年に再開された。