入院前の串山一郎さん

精神科の「隔離と薬漬け」の末に亡くなった、38歳男性と両親の無念

ルポ ブラック精神医療(3)

串山一郎さんは、国立病院機構が運営する広島県の精神科病院で、4ヵ月半にわたって隔離と多剤大量投薬を受け、退院した月に突然死した。38歳だった。一郎さんの命の尊さをお伝えするため本名でご登場いただき、顔写真も公開する。

一郎さんは重い自閉症を患い、知的障害もある重複障害者だった。一郎さんが亡くなった後、両親は「重複障害者が直面する非人道的な扱いを多くの人に知って欲しい」と、病院を相手に2件の民事訴訟を起こし、うち1件は現在も続いている。

筆者もまた、一郎さんと両親の無念、そして社会問題化している「日本の精神医療の闇」を多くの人に伝えるべく、取材の成果を『なぜ、日本の精神医療は暴走するのか』にまとめ、このたび上梓した。

一郎さんは、家族にとっても友人、知人にとっても無くてはならない存在だった。一郎さんとの出会いをきっかけに人生の進路を決め、現在は教育や福祉の第一線で活躍する人たちもいる。一郎さんがいたからこそ、彼らの今がある。

 

貯金を続け、マイホームも建てた

1975年5月1日、一郎さんは広島市に生まれた。父親の陽三さんと、母親の美奈子さんは共に教師をしていた。

1~2歳の頃から抜群の記憶力を発揮し、カレンダーに載っていた世界中の国旗をすぐに覚えて国名を当てた。ところが一人遊びが専門で、同年代の子供とは積極的に遊ぼうとしなかった。言葉の発達も遅れていた。単語などの短い言葉は出ても一方的で、簡単な会話が成立しなかった。

3歳の時、広島市の児童総合相談センターで「全体的な発達の遅れ」と指摘され、育成園に通園した。1980年、広島市こども療育センターで「重度精神遅滞・自閉症」と診断された。

自閉症(カナー型自閉症)は、「対人関係や社会性の障害」「興味の偏りやパターン化した行動」「言葉の発達の遅れ」を特徴とし、知的障害を持つ先天的な発達障害と定義されている。原因は不明だが、脳機能の一部に障害が起こっていると考えられている。

もし現代の最先端の療育を伸び盛りの幼少期に受けていれば、一郎さんの人生はずいぶん変わっていたかもしれない。ひとつ確かなのは、脳の部分的な機能不全のために意味のある言葉が出ず、自閉症や知的障害のレッテルを張られた子供たちにも、豊かな感性と学ぶ力があり、障害を克服して大きく伸びる可能性を持っているということだ。

初対面の人は、一郎さんが何を言いたいのかわからない。しかし興味があることには一生懸命取り組む頑張り屋だった。

幼稚園に入っても三輪車をうまくこげなかった。毎日サドルに座り、足で地面を蹴って進んだ。坂道を見つけると三輪車を押し上げて、足を高く上げて駆け下った。美奈子さんが「脚力がなくても漕げるのでは」と考えて車輪の大きな三輪車を購入すると、練習を重ねて進めるようになった。小学校に入ると自転車にも乗れるようなった。

小学校は特別支援学級に通い、朝は近所の友達と一緒に登校した。友達が家に遊びに来ることも多く、同年代との交流に自然と慣れていった。中学の時も学校全体の対応が良く、楽しく過ごした。

ただこの頃、てんかんを合併していると診断され、抗てんかん薬を飲み始めた。これが服薬の始まりだった。

高校は養護学校の高等部に通い、卒業後は自宅近くの作業所に通う日々を過ごした。

父親の陽三さんは、一人息子の一郎さんが可愛くて仕方なかった。週末はいつも行動を共にして、成人してからも県内外を頻繁に旅行した。一郎さんは環境が急に変わると体調を崩すので泊りがけの旅行は難しかったが、日帰りで四国や九州などにも行った。旅先で綺麗な風景にはしゃぎ、おいしいものを食べると全身が「笑顔」になる。疲れたら愚図り、不快だと怒る。一郎さんの衒いのない感情表現を陽三さんは愛した。

入院前は溌剌としていた一郎さん(2013年5月4日、広島県廿日市市の妹背の滝で)