男子高校生にとって、Queenは「憧れのロックスター」だったか

ツェッペリンやストーンズとは違って…
堀井 憲一郎 プロフィール

大人の耳にも届く音

中学・高校の友人で、音楽をよく聞いていて、いつもギターばっかり弾いていた友人に、あらためてクイーンのことを聞くと、やはり高校時代はきれいに無視していたと答えてくれた。

彼は少しあと、おそらく1980年代だとおもわれるが、クイーンのベストアルバムを買い、それをクルマの中で流していたところ、同乗していた彼の母に「あなたのいつも聞いている音楽はよくわからないけど、この音楽は素敵ね」と言われたそうである(いつも聞く音楽はおそらくローリングストーンズやフランク・ザッパだったのではないかとおもう)。

おそらくこれがクイーンに対する正しい評価なのだ。

ただうるさく叫び続ける音楽ではなく、大人の耳にもきちんと届く音を彼らは作っていた。だから、これほど無視しているぼくたちにもその音楽はきちんと刻まれている。

〔PHOTO〕Gettyimages

そのことに、2018年になるまで気づいてなかった。 

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見るまで、きちんと正面から向き合ってクイーンを聞いたことがなかったからだ。

自分でレコードを買ったことも友人から借りたこともなく、レンタルレコード店でレンタルしたこともなく、カセットに落としたこともなければ、CDもMDも持っておらず、DVDを借りたこともなかった。

自分から初めてクイーンの音楽を探して聞いたのは、先だって映画を見たあと、ユーチューブでだった(ユーチューブは偉大である)。

1970年代から1980年代にかけて、ぼくも何とか生きていたころ、彼らも彼らなりに懸命に音楽を作り、提供していた。そしてそれはいつもどこかでクロスしていたのだ。それに気づいた。クイーンとぼくらは、一緒に生きていたのだ。

 

映画を見て、1970年代が蘇った

映画を見たあとには、クイーンの曲がすべて胸に迫ってくる。

そこには懸命に生きていた若者の声がある。いまここに、彼らの存在とあの時代が強くよみがえってくる。

あまりに単純な反応で申し訳ないが、しかたがない。映画が素晴らしいということであり、クイーンの楽曲の力があまりにも突き抜けているということなのだろう。

映画のクライマックスは1985年のライブエイドで、これも当時の空気をおもいだした。日本での中継は、とにかくコマーシャルが多かったことばかり覚えている。ボブ・ディランを見たくて録画していたのだが、全体の印象としては(中途半端な中継だったこともあって)かなり散漫なものだった。もう一度見返したいとはおもわなかった。映画を見て、33年前のビデオテープを探している。どっかにあるとおもう。
 
1970年代から1980年代にかけて、クイーンと本当はかなり深い部分でふれ合っていたようだ。

2018年に映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見たとたんに、かつての音楽的な記憶が一挙につながって、よみがえってきた。クイーンだけに限らず、あのころ聞いていた音楽とそれにまつわる風景がリアルにおもいだされたのだ。不思議な映画体験である。

映画に触発され、自分のなかにあったクイーン音楽の欠片がすべて掻き集められ、ばらばらだった1970年代の記憶がまとまっていく体験だ。自分の内側で、勝手に物語の生成されていくようであった。異様に興奮した。

二度目に『ボヘミアン・ラプソディ』を見に行ったときには、クイーンをまったく知らない21歳の男子学生と行ったのだけれど、彼も深く感銘を受けていた。それぞれの音楽記憶とは関係なく、強く訴えてくる映画のようだ。フレディと家族の姿を見ているだけで、胸に迫ってくる。ママーという叫びがずっと頭の中で鳴り続けている。