(左から)©️二ノ宮知子『のだめカンタービレ』、©️三田紀房『ドラゴン桜』、©️梶原一騎『巨人の星』、©️井上雄彦『バガボンド』、

人気マンガの「遺伝的才能発揮ストーリー」が教える“教育の本質”

行動遺伝学者がマンガを読んだら…

特異な才能を発揮する主人公たち

昭和30年代世代は確実にマンガ世代といっていいだろう。

子どものころ『鉄腕アトム』の活躍にワクワクし『おそ松くん』でくすくす笑い、『巨人の星』で男の友情と根性を知り、思春期になると『エースをねらえ!』で高みを追及する心を、『ベルサイユのばら』でフランス革命を学んだ。

さらに大人になってからも『寄生獣』や『バガボンド』で生命と人間の命について考えされられた。

その物語がフィクションとしてどんなに非現実的な人間や場面を描いていても、どこかに自分を投影し、あるいはその物語の中に入り込んで、等身大のメッセージを受け止める。

いま読むとほとんどギャグの連続でしかない『巨人の星』(川上監督や王・長島があんなクサいことを言うわけはなく、未成年の花形満がオープンカーを運転できるわけはなく、非科学的な大リーグボール現象が生ずるはずもない)を真剣に読み込んで精神の糧にしていた昔の自分を懐かしく思い出しこそするが、そこで描かれた世界に騙されたという恨みなど微塵もない。

だが、あえて元も子もない指摘をさせていただきたい。

冷静にマンガの主人公たちを見ると、『巨人の星』星飛雄馬も『エースをねらえ!』岡ひろみも、『のだめカンタービレ』ののだめも『ONE PIECE』のルフィも、はじめから何らかの突出した才能の持ち主として描かれている。

父・星一徹の残酷ともいえる英才教育を幼少より受け、根性と努力の塊のような星飛雄馬は、あばら家の板一枚の壁の穴を通して外の木で跳ね返ってきたボールがまたその穴を通る(!)ほどのコントロールと剛速球を習得できる学習能力の持ち主。

不潔で奇怪なのだめが才色あい兼ね備えた千秋真一を惹きつけたのは、ひとえにそのたぐいまれな荒削りの音楽的才能。

ルフィも、この世の無限の選択肢の中からよりによってはじめから海賊だけを夢見ており、特殊能力も付与される。

どこに才能があったのかわからない劣等生の岡ひろみも、なぜか宗像コーチの目からはその類稀なテニスの才能が見抜かれていた(高校時代、それなら自分もできるんではないかと錯覚した私は、大学に入ってテニスを始めようとしたがすぐに挫折した)。

凡人は何人たりとも主人公にはなりえないのだ。

別にマンガに限ったことではない。いやしくも物語の主人公になる人物は、はじめから何らかの特異な才能や性格を付与されていなければ、物語に登場する資格はない。その特異性が物語の牽引力になるからだ。

その特異な才能や性格を与えてくれているのは、私のような行動遺伝学者からみれば、ほとんど「遺伝」である。

父も優れた野球選手や音楽家である星飛雄馬や千秋真一のばあい、その遺伝的素質は個々の遺伝子の効果が足し算的に効くいわゆる相加的遺伝効果を想定できるが、たいがいは親に一見その素質のない、おそらくは独特の遺伝子の組み合わせが産む特殊効果である非相加的遺伝効果が想定される。

そのあたりは行動遺伝学的にいかようにも解釈できるが、いずれにせよ身もふたもない話だ。

その非現実の前提を無視すれば、物語の描くストーリーにはなにがしかの人生の真実が描かれており、そこに自分を投影し、惹き込まれ、感動して、かけがえのない何かを得ることができる。しかしそのそもそもの前提が、たいがいは荒唐無稽なのである。

「遺伝的才能発揮ストーリー」を求める社会

そんな「それを言っちゃおしまい」な、元も子もなくなる揚げ足取りができるにもかかわらず、なぜマンガに描かれた世界に人々は魅了されるのだろう。

それはとりもなおさず「持って生まれた唯一無二の遺伝的素質が、与えられた状況の中で自らの輝く居場所を探し、その特質を高めてゆく生きざま」に、普遍的な魅力があるからだと行動遺伝学者は考える。

内側からわき出るのっぴきならないその人らしさ、巻き込まれる苦難、その苦難がその人の資質を見出し、伸ばし、発揮しながら克服して、何事かを成し遂げる人生。この構図は、その遺伝と環境の条件がいかようなものであっても、万人に当てはまる普遍性をもつからではないか。