戦前日本の「外交機密費」は、いったい何のために使われていたのか

戦争でも平和でもない日中関係
井上 寿一 プロフィール

なぜ日中戦争は避けられなかったのか?

この史料集が満州事変期(1931~36年度)に限定されていることは、外交機密費の全体像を明らかにするうえで、大きな限界になっている。

他方で〈なぜ日中戦争は避けられなかったのか?〉と問題を設定すれば、この史料集の有用性は高まる。満州事変が起きなければ、1937(昭和12)年7月からはじまる日中戦争はなく、日中戦争が起きなければ、1941年12月の真珠湾攻撃もなかっただろう。満州事変が起きたとしても、日中戦争は必然だったのではない。その過程は山あり谷ありだった。

盧溝橋事件

別の言い方をすれば、満州事変を与えられた条件としながらも、日中外交関係は、戦争以外の修復の可能性があった。このような問題関心から本書は、機密費外交の展開をとおして、日中戦争回避の可能性を探索する。

戦争でも平和でもない

あらかじめ満州事変期の日中関係の基本的な構図を確認しておく。

1927(昭和2)年4月、南京に国民政府を成立させた蔣介石は翌年12月、中国の統一を達成する。しかし蔣介石の中国国民政府(南京政府)は、清朝中国崩壊後の軍閥割拠と内乱を経て、軍事的にも経済的にも弱かった。

蔣介石は国民政府内に反蔣介石勢力を抱える一方で、中国共産党の武装革命運動に対抗しなければならなかった。残存する旧軍閥勢力のコントロールも不十分だった。国民世論のナショナリズムの感情は無視できなかった。中国の国民世論は蔣介石の政府に、不平等条約の撤廃と国権(「満蒙」の失われた権益)回復を求めるようになっていたからである。

日本では幣原喜重郎が2度目の外相を務めていた。1930年のロンドン海軍軍縮条約の調印によって、日本の対欧米協調外交は頂点に達した。他方で調印後、批准に至る過程での幣原の強引な進め方は、国内の反発を招く。反ロンドン海軍軍縮条約勢力は幣原が閣僚の立憲民政党内閣の打倒をめざす。

幣原喜重郎(国立国会図書館蔵)

幣原は軍部との対抗関係を抱えていた。すでに1927年から翌年にかけて、軍部は山東出兵をおこなっている。出兵の目的は、蔣介石の軍事的な国家統一にともなう山東地方の戦乱から在留邦人の生命・財産を保護することだった。

不平等条約改正交渉の方は、1930年5月の日華関税協定の成立によって半分解決したものの、治外法権撤廃問題が残っていた。この問題の解決をめぐって中国在勤の外交官と幣原が対立する。現地の外交官は、日中二国間交渉において思いきった譲歩をすることで、問題の解決をめざした。対する幣原は対欧米協調の観点から多国間交渉の場で解決する考えだった。

相互に国内問題を抱える両国の外交は、満州事変の勃発に対して、局地的な解決を求めた。しかし満州事変は拡大する。満州国よりも一回り小さく、中国の主権を認める自治政府の成立であれば、日中外交関係の正常化は可能だっただろう。

ところが実際には満州国の建国(1932年3月)から日本の満州国承認(同年9月)へと至る。

それでも外交関係の修復の余地は残されていた。1933(昭和8)年5月31日に日中停戦協定が成立すると、日中関係は戦争ではなく、平和でもない、いわば冷戦状況が生まれた。

日中関係がこの冷戦状況から戦争に向かわないようにするにはどうすればよかったか。満州国の存在の黙認と蔣介石の国民政府の対日妥協路線を前提として、「経済提携」による漸進的な関係改善を図る。その波及効果が外交関係の修復をもたらす。

このような日中外交関係の修復が実現すれば、日中戦争は回避可能だった。

今年(2018〈平成30〉年)は日中平和友好条約締結40周年である。しかし日中関係は「平和」と「友好」からほど遠い。戦争ではなく、平和でもないのが今日の日中関係だとすれば、満州事変期の日中関係の歴史は、ふりかえるに値する今日的な意義がある。