大逆事件の大打撃による「雄弁」失速に追い討ちをかけた衝撃の講演

大衆は神である(29)
魚住 昭 プロフィール

掲載は止めてくれ

大沢は速記者に「(速記原稿を)早く反訳してくれ」と頼んで団子坂に帰った。『雄弁』創刊1周年記念号の締め切りが迫っていたからだ。「謀叛論」は、そのトップを飾るにふさわしい内容だった。

ところが、その夜、事態が急転した。演説内容を知った学校当局や文部省が「不敬演説だ」と騒ぎ出したのである。

 

大沢の証言によると、講演の当日夜、「是非掲載は止めてくれ」と一高から申し入れがあった。

その次(筆者註:翌日の2日と思われる)には、一高弁論部委員(河上)が団子坂に来て「(新渡戸稲造)校長が是非その速記原稿を返してくれと言っている」と伝えた。そのため、大沢は河上とともに速記事務所に向かい、速記者から反訳前の原稿をもらった。

河上はその原稿を「夜分、小石川のお宅で校長に手わたした」(『革命伝説 大逆事件4』)。

新渡戸は講演翌日の2日、文部省に呼び出され、口頭で進退伺いを出した。彼は講演会に出席していなかったが、弁論部が蘆花に講演依頼するのを事前に了承していたので、責任は免れないと考えたのだろう。実際のところ、免職になっても不思議ではない深刻な事態だった。

しかし、文部省は2月8日、新渡戸と弁論部長教授を譴責処分にすることでケリをつけた。一高生たちによる校長留任運動が日に日に盛り上がっていくのを見て、ここは穏便に事を収め、政治問題化するのを避けたほうが賢明だと判断したのだろう。

結局、「謀叛論」事件で貧乏くじをひいたのは、『雄弁』だった。もし、蘆花講演を全文掲載していれば、創刊1周年記念号は大変な反響を呼んだにちがいない。そのチャンスをフイにしたうえ、当局の『雄弁』に対する疑念をかき立てるだけの結果に終わったのだから。

註①「謀叛論」事件の顚末は中野好夫『蘆花徳冨健次郎 第三部』(筑摩書房、1974年)と、神崎清著『革命伝説 大逆事件4 十二個の棺桶』(子どもの未来社、2010年)を参照した。なお、引用は講演草稿であり、実際の講演とは異同がある。