大逆事件の大打撃による「雄弁」失速に追い討ちをかけた衝撃の講演

大衆は神である(29)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

金策に困りながらも、野間清治が多くの人を巻き込み創刊した弁論雑誌『雄弁』は、創刊直後から売れに売れた。しかし、創刊から3ヵ月半後に起きた「大逆事件」の影響で、大打撃を受ける。そこには、とばっちりとは言い切れない事件との関わりがあった――。

 

第三章 大逆事件と『雄弁』、そして『講談倶楽部』─「冬の時代」に ⑵

編集主任・大沢一六

前にふれたように大沢一六はこれより2年前の明治41(1908)年、前橋中学校で同窓だった高畠素之らと社会主義雑誌『東北評論』(通巻4号で発売禁止。新村忠雄はその同人だった)を創刊している。

創刊の辞を書いたのは大沢で、彼はそのなかで、19世紀後半のロシア革命運動のスローガンとなったヴ・ナロード(人民の中へ)の理念を高々と掲げている。

〈予等は西欧の青年同志が多数、無知なる人民を教育し自覚せしめんがために『人民の中に行く』てふ標語の下に、教師となり産婆となり医師となり農夫となり雇人となりて、田園に移り住める心情を忍ぶ毎に、其崇高真摯の念に打たれて自己が地方に在住するの光栄と責任との益々重大なるを感ずる者也。而して之れ実に本誌発刊理由の一たる也〉(田中真人『高畠素之 日本の国家社会主義』より)

大沢のスタンスは、『雄弁』の読者層よりさらに左の急進左派に近い。が、新村のようにテロリズムに傾斜するところまではいかなかったようだ。のちに大沢は人権派の弁護士として活躍し、日本労農党などの無産政党から2度にわたって衆院選に立候補(いずれも落選)することになる。

清治は大沢のそうした思想傾向を知ってか知らずか、「法科大学の学生中、編集の方面に於ては一番腕前があり文章も上手だと、大勢の人々の推挙もあった」(『私の半生』)彼を編集主任にすえた。『雄弁』が創刊してまもなくのことである。

ところが、直後に発覚した大逆事件の捜査で、大沢が新村と親しく、手紙のやりとりをしていたことがわかった。大沢は事件への関与を疑われ、刑事の執拗な監視・尾行を受けた。大沢の回想。

〈僕が社会党と交際があるという理由で、しばらくの間、尾行があとをつけて歩いていた。幸徳事件のあとだ。大学へもついて行くが、さすがに教室には入らない。そこで文科(大学)の大建築の真ん中にあった教室でテリー先生の英法のレクチャーがある。そのときに向こう側の窓から皆が飛び出してエスケープするので、僕もそれをやった。すると尾行の奴はそれを知らないで廊下の入口に待っているので、彼をまくのに都合の良いのはテリー先生の講義だった。それでも夜は下宿の前に来ていた。もっとも、この尾行君は勉強家で、僕が美(み)濃(の)部(べ)(達(たつ)吉(きち))先生の行政(学)のノートを貸してやったりして、ついに(高等)文官試験をパスした男だった〉