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「安田純平氏への大バッシングと自己責任論」とは一体何だったのか

心理学的に振り返ってみる

安田氏へのバッシングを振り返って

シリアで約3年半もの間、過激集団に拘束され、10月に無事生還した安田純平氏へのバッシングは、どうやらほぼ終息したようだ。

彼が記者会見で真摯に謝罪を述べ、終始誠実な態度で語っていたことで、バッシングをしていた多くの人の溜飲が下がったのだろうか。

この記者会見が1つの転換点となったのは間違いない。

伊調馨選手へのパワハラ事件や日大危険タックル事件では、関係者の記者会見がかえって炎上に油を注ぎ、かえって大きな批判を集めることになったのに比べると、安田氏の誠実な会見は「成功」だと言ってよい。

そしてもう1つは、バッシングしていた人々が、この話題に飽きたからだろう。

ネットバッシングが好きな人は、次の新しいターゲットを探して、「バッシングサーフィン」を続けるに違いない。あちこちで些細なことで怒鳴ったり、土下座を強要したりする悪質クレーマーとよく似ている。

安田純平氏 〔PHOTO〕gettyimages

今回の騒ぎを見ていて興味深かったのは、マスメディア側が右も左も揃って彼の擁護に回ったことだった。

新聞労連はすぐさま「安田純平さんの帰国を喜び合える社会を目指して」と題する声明を発表し、そこでは「『反日』や『自己責任』という言葉が浴びせられている状況を見過ごすことができません」「安田さんは困難な取材を積み重ねることによって、日本社会や国際社会に一つの判断材料を提供してきたジャーナリストです」と述べ、「今回の安田さんの解放には、民主主義社会の基盤となる『知る権利』を大切にするという価値が詰まっている」と主張した。

日本だけでなく、海外のメディアまでもが日本で渦巻く「自己責任論」に疑問を呈し、フランスの場合は、解放されたジャーナリストを大統領自らが出迎えた映像を紹介した。

 

すれ違う議論

メディアで仕事をする人々は、安田氏の仕事を大きく評価しその意義を訴えるが、いくら異口同音にそれを主張しても、バッシングをしている人には伝わらない。

彼らは、シリアのことなどどうでもよく、安田氏の仕事の価値や意義を評価しないし、それよりも彼のかつてのツイートや「反権力的な」態度、「変わったことをしている」というただそれだけのことが気に入らないのだ。

新聞労連の声明では「『まず謝りなさい』とツイッターに投稿する経営者もいますが、『無事で良かった』」と喜び合える社会を目指したいと結んでいる。

これは高須クリニック院長のツイッターを指していると思われるが、私もこのツイートを目にしたとき、あたかも国を代表するかのように上から命令する高圧的な姿勢に強い違和感を抱いた。

また、タレントのフィフィは、「マスコミが最初に流してきたときにまるで英雄視するかのように、賞賛するかのように、何か大きなことを成し遂げたかのような歓迎の仕方をしてしまった。これはすごく無責任だと思った」と述べて批判をした。

しかも、彼女はかつて安田氏に自らが揶揄されたエピソードを挙げ、単なる私怨を根にもって批判をしているようであった。

いくら好ましく思っていない相手であっても、命からがら生還したときに、ここぞとばかり仕返しのように叩く態度こそ、無責任である。