〔PHOTO〕三浦咲恵

日本社会に絶望する読者は何を求めているのか?平野啓一郎の「答え」

現代文学の最先端を切り開くために

鮮烈なデビュー作『日蝕』で芥川賞を受賞してから20年、平野啓一郎が世に解き放った最新作『ある男』が版を重ねている。前作『マチネの終わりに』は大人の恋愛小説として20万部を突破し、映画化も決まった。

読者が一向に広がらない純文学にあって、文学性とポピュラリティーを高い次元で両立させている作家の一人だ。

しかも、彼は社会問題についても果敢に発言する論客でもある。今作もヘイトスピーチや差別、インターネット上のなりすましといった社会的なテーマを盛り込みつつ「面白く読める小説」に仕上げた。

なぜ、平野は物語の世界に安住せずに「社会」を描くのか?

(取材・文:石戸諭/写真:三浦咲恵)

平野啓一郎さん

今、小説を書くうえで大事なこと

ある男』の大まかなあらすじはこうだ。夜のバーで偽名を語り、飲んでいた弁護士の城戸と小説家の「私」が出会う。「私」は城戸の話に惹きこまれ、彼が担当したある事件を小説にする。

城戸がかつての依頼者である里枝から相談を受ける。それは、結婚し不慮の事故で亡くなった夫がまったくの別人であるという話だった。果たして、里枝が結婚していたのは誰だったのか。「彼」はなぜ別人の名前を語っていたのか。

そこに絡むのが城戸のルーツである在日コリアン――城戸自身は在日3世だ――という属性を攻撃するヘイトスピーチであり、アイデンティティの問題だ。

縦軸には往年の社会派ミステリーのような「愛した彼は一体誰だったのか?」という謎解きがあり、横軸に「愛にとって過去とは何か」「『私』にとって属性とは何か」という純文学的な問いを絡めた小説になった。

テーマは骨太でありながら、文体そのものに重厚さはなく、謎解きというエンタメ性も兼ね備えている。果たして、その狙いは――。

《純文学の世界で「読者のことを考える」というと、表面的なマーケティングの話だと敬遠されがちです。例えば今の読者の読解力を考えて、もっとやさしく書くべきだとか。でも、それは誤解だし、実際、うまくいかないでしょう。

他方で、純文学のコアな読者だけに向けて書いても、作品は社会に広がっていきません。「もう知ってるよ」と思われるような話を、お互いに再確認して終わってしまう。

今の情報環境を考えてみてください。1時間空いた時間があったとします。スマホを見るか、テレビを見るか、ゲームをやるか、本を読むのか。僕もそうですけど、すべてフラットですよね。最初から「文学は読むべきものである」と言っても、まったく通用しない。

 

その時になぜ小説を読むのか。そこに自分にとってよっぽど大事なものが書いてあると思わない限り、読者は手に取りません。

同時代的なテーマを掴みそこねたまま、語り口だけが「文学的に」面白いという小説は、本当に面白いのか? そもそもその語り口も、ストリートやネットの世界で起きている口語の変化よりも刺激的なのか? 

だから、大事なのは、読者のことを考えるということが、現代人について考えるということと直結するような問いの立て方なんです。》

『ある男』はまもなく5万部を突破する勢いでヒットしている

今回の大きな主題は「他者」への想像力だと言えるだろう。城戸自身は別人の人生を歩んだ「彼」に奇妙なシンパシーを抱いている。

一方で里枝からみると、固有名詞が変わっても「彼」は愛した「彼」でしかないと思うところに物語の大きなポイントが置かれている。

他の誰かになりたいと願うこと、他でもない「彼」であると納得すること。登場人物の思いと視点が折り重なり物語は進む。