いま解き明かされる、三島由紀夫「自決」の謎

大澤真幸が読み解く
大澤 真幸 プロフィール

陸上自衛隊駐屯地でのクーデター未遂事件

しかし、このことを明晰に概念として捉えようとすると、たちまち困難にぶちあたる。困難とは、三島が昭和45年(1970年)11月25日に引き起こしたあの事件、クーデター未遂事件だ。

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この日、三島は、「楯の会」と自称する学生戦士集団のメンバー四人とともに、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地(東部方面総監部)に押し入り、建物のバルコニーから、自衛隊は天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守るという建軍の本義に立ち戻るべきだとして、蹶起を呼びかける演説をした。

自衛隊員がまったく演説を聞き入れないと判断するや、三島は腹を切って自裁した。三島の思想が最終的にこのような愚かな行動に至るのだとすれば、その思想に何らかの普遍性があると言えるだろうか。とうてい言えまい。

まず、三島がバルコニーから語ったこと、檄文に書いたことは、はっきり言えば、あまりに凡庸である。日本国憲法を破棄させるために自衛隊の蹶起を望む、といった主張が、理解できないわけではない。

「屈辱的な平和憲法を放棄せよ」とか、「自衛隊は正式な国軍であるべき」とか、「天皇陛下、万歳」とか、といった主張をしている人は、三島のほかにもたくさんいる。

しかし、三島が全生涯をかけて言おうとしていたことが、結局こんなことに集約されるのだとすれば、それはあまりにも普通である。

三島の文学作品や芸術理論が示唆する思想の深さと広がりに比して、どんな右翼でも言ってきたこの凡庸な主張の間には、埋めがたいギャップがあるように見えるのだが、前者を煎じ詰めると後者になってしまうのか……?

だが、三島のクーデター(未遂)のインパクトの中心は、彼が演説や檄文で明示的に語ったことにあるわけではない。それは、彼が最後に割腹によって自殺したことにこそある。この行動は確かに強烈で非凡だ。

しかし、よい意味で非凡なわけではない。これは「どんな右翼でも考えそうなこと」どころか、どんなにバカなテロリストでもやりそうもない愚行に見える。自爆テロというものはあるが、敵にいかなる打撃も与えない、派手な自殺にどんな意味があるというのか。

なぜ、あのような愚行とも言える行動をとったのか

それゆえ、三島由紀夫をめぐる第一の謎は、三島由紀夫はどうして、あのようなクーデターを実行しようとしたのか、である。この行動の中心には、独特の天皇概念がある。それを、三島は――「政治概念としての天皇」と対比して――「文化概念としての天皇」と呼んでいる。

彼はなぜ、そのような天皇概念を必要とし、また可能であると考えたのか。そのような天皇と一体化し、それに心身を捧げる軍隊に価値があると三島が考えた理由はどこにあるのか。

この問いは、西洋思想におけるハイデガー問題に比せられる。ハイデガーは、20世紀で最も偉大な哲学者である。それどころか、西洋哲学史の全体で見ても、ハイデガーはトップクラスに重要な思想家であろう。

だが、ハイデガーは、ナチスとヒトラーを公然と、しかも熱烈に支持し、そのことを生涯、後悔もしなければ、反省もしなかった。

どうして、ハイデガーがナチスに加担したのか。三島についての第一の謎は、この問題と似ている。

それにしても、この三島の第一の謎は、正直なところ、思索の努力を萎えさせるものがある。三島の思想に、普遍性を見出そうとする者にとっては、この問題は、むしろ不問に付しておきたいところだ。

先にも述べたように、結論が、あの最後の行動にあるのだとすれば、この行動をめぐる探究を通じて、むしろ、三島の思想には普遍性などなかった、せいぜい一部の日本の右翼思想に根拠を与えるものに過ぎなかった、ということが証明されることになりそうだからだ。