真相を探るため、まず、当時の事実上の最高権力者・山県有朋(やまがた・ありとも)が大逆事件にどう反応したかを見ておきたい。それを端的に示す文書が残っている。彼の意見書「社会破壊主義論」である。
この意見書は明治43年夏、山県ブレーンの法科学長・穂積八束が起草し、9月8日に山県が自らの名で明治天皇に奉呈した。10月2日に元老・井上馨(いのうえ・かおる)に送付したほか、一部の元老・閣僚にも提示し、その後の大逆事件の処理方針(大審院が幸徳らに死刑判決を下すのは翌年一月)を規定したといわれている。註①
意見書の要点を挙げておこう。
〔Ⅰ〕社会主義は〈天賦神聖ノ国体〉と〈民族道徳ノ根本〉に〈爆弾〉を投げつけるものだから〈全力ヲ尽クシテ其ノ根絶〉を計らなければならない。そのためには〈言論学問ノ自由〉を犠牲にしても〈集会結社演説著作〉を取り締まるべきである。
〔Ⅱ〕社会主義にはいろいろな分派があり、やや穏当なものもあるが、その理想や目的は同じだから〈一切之ヲ禁制〉にすべし。普通選挙を求める運動などと、社会主義運動にはわずかなちがいしかない。不穏な思想は〈萌芽ノ間ニ摘去〉しなければ、国家の大患となる恐れがある。
〔Ⅲ〕社会主義根絶の第一要義は〈完全ナル国民教育〉の普及にある。〈個人主義ヲ排除〉して穏健な思想、国民道徳を涵養しなければならない。また施療院をつくるなどの社会政策で人々を感化誘導し〈全ク改悛ノ見込ナキ〉者は〈絶滅シテ遺(いけつ=残党)ナキヲ期スヘシ〉。
要するに、天皇絶対の国家主義思想に反するものはすべて排除し、改悛の見込みのない者は殺してしまえという恐るべき主張である。さらに恐ろしいのは、それが、そっくりそのまま政府や司法当局の方針となったことである。
前年10月、ライバル・伊藤博文が満洲のハルビン駅で朝鮮独立運動家の安重根(アン・ジュングン)に暗殺されて以来、山県の発言力は圧倒的なものになっていた。その権勢を示すエピソードとして、よく引き合いに出されるのが、明治天皇が亡くなる十数日前の出来事である。
その日、明治天皇は枢密院の会議に臨んでいた。が、すでに体力が相当衰えていたのだろう、会議の途中で居眠りをしだした。議長席の山県はそれに気づくと、軍刀の先で床を叩き、その音で明治天皇を目覚めさせた。