太陽の塔(写真はすべて筆者撮影)

大阪万博とは何だったのか? 知られざる「歴史と信仰と秘話」

今日、2025年万博の開催地が決定

55年越しの開催をめざす

大阪が立候補している2025年の万博の開催地が、今日23日に決定する。

2025年の万博には、大阪のほか、ロシアのエカテリンブルクと、アゼルバイジャンのバクーが立候補しており、フランスのパリで開かれるBIE=博覧会国際事務局の総会で、加盟国の投票によって決まる。

大阪では1970年(昭和45年)3月15日から9月13日までの183日間にわたって開催さり、「人類の進歩と調和」をテーマに日本万国博覧会(EXPO'70)が開催され大成功をおさめている。

76ヵ国が参加し、国内32団体もパビリオンを開いた。開催期間中の入場者は6421万人におよび、平均入場者数35万人だった。330ヘクタールに及ぶ会場は大阪の千里丘陵を切り開いた場所だった。

1940年に予定していた万国博覧会を中止に追い込まれた日本だったが、戦後復興を成し遂げ、64年東京オリンピックの開催、国内の経済発展と相まって万博開催の気運が再度盛り上がった。

1964年2月には国会で万国博覧会開催が提案され、大阪からは万博誘致の要望書が政府に提出された。こういった動きを受けて、政府も万博開催の検討を始め、同年8月、「1970年の万博開催を積極的に推進する」ことが閣議決定された。

万博の会場については東京や千葉も候補となったが、64年7月に「大阪を中心とする近畿地方」での開催を推進する委員会が発足。誘致に向けた活動が本格化したため、候補地は近畿に絞られた。そして65年4月に会場は大阪の千里丘陵に決定した。

2025年の大阪招致構想においては、大阪湾に浮かぶ「夢洲(ゆめしま)」が博覧会場に予定されている。夢洲は、カジノを設けた統合型リゾート(IR)の候補地でもある。

この無味乾燥で歴史のない人工島に対して、大阪万博が開催された千里丘陵は知られざる歴史と信仰があったことをこれから紹介していきたい。

 

大阪・千里丘陵という地勢

大阪万博が行われた千里丘陵は、大阪府の北摂地域、豊中市・吹田市・茨木市・箕面市にまたがる丘陵地である。10キロにわたる低い丘陵には、かつて村らしい村もなく、集落といえば山田村の山田と千里村の佐井寺、新田村の上新田・下新田ぐらいだった。

地域の標高は20メートルから150メートル足らずで、丘陵の斜面では桑畑などを作っていた。里山は大阪府下有数筍と桃の産地であった。

千里山は大阪府吹田市の旧大字で、地域としては千里丘陵の南部にあたる。

1889年(明治22)4月の町村制施行により島下郡佐井寺村と片山村が合併。新しい村名をつけるにあたり、佐井寺の北側の小丘を「千里山(ちさと)」と呼んでいたので、その山の名をとり千里村と名づけたという。

1921年(大正10年)に開業した北大阪電気鉄道の千里山駅が「せんりやま」と読ませていたこともあって、31年に大字佐井寺から分立した大字千里山の読みも「せんりやま」となった。1920年から28年にかけて大字佐井寺の西部で行われた大規模な住宅開発で人口が急増した。

千里山はこの東西10キロ南北8キロにわたる丘陵全体の総称となり、この丘陵に通じている電車線を「千里山線」と称し、ここに「千里山」、「南千里」、「北千里」の駅がある。

高度成長期に大阪府は、千里丘陵を大規模な住宅団地に開発して、千里ニュータウンのマスタープランを立てた。こうして千里丘陵の農地や竹林は掘り返され、団地になった。さらに万国博会場も千里山の中にある。

大阪府豊中市、吹田市に跨る千里ニュータウンは、日本最初の大規模ニュータウン開発で、1963年に制定された新住宅市街地開発法の初適用など、各地のニュータウン開発に大きな影響を与えた。