「最後のコサック」ビクトル古賀の壮絶人生

「死ぬときはきっぱり。それが美学だ」
石村 博子

こんな少年がいたなんて!

ビクトルと初めて会ったのは、数奇な人生を送った母親のクセーニアの半生を聴くためだった。そこで彼は子ども時代を少し話してくれた。自分は終戦後、ハルビンから錦州まで独りで歩いて帰ってきたんですよ。死体から靴をもらって、煙の様子でロシア人の家を探しあてて食べ物をもらって……。

あんまり面白かったので、後日詳しく聞かせてほしいと頼みに行った。「ああ、いいですよ」とあっさりオーケーしてくれたのは、2005年1月末。すぐにまとまるつもりが、『たった独りの引き揚げ隊』が世に出るまではそれから4年もかかってしまったが。

 

まず、プロフィールからして複雑なのである。

1935年、旧満州ハイラルで出生。父親は関東軍と取引する毛皮商、古賀仁吉。母親は亡命コサックの娘クセーニア。仁吉は柳川藩主立花家の同流の出自、クセーニアの父・フィヨードルはコサックのアタマン(頭目)という組み合わせ。

フィヨードルはコサック騎兵隊の兵士として日露戦争に参戦し、捕虜になって広島で収容所生活を送った経歴を持っている。ロシア革命の際は“白いコサック”として戦ったが、追われて満州のコサック村へと亡命した

そのフィヨードルにビクトルは愛され、コサックの魂に触れながら成長した。ものごころつくときから、コサック仲間と草原を馬で駆け抜け、自然を読み解く知恵を学び、騎馬戦士になるための訓練に明け暮れたのだ。

そんな少年が1945年8月9日は、夜も明けきらぬうちから仲間と草原に繰り出していた。

草原から戻った時にはハイラルの街は火の海で、家族とはバラバラに。ここから独り残されたビーチャの生きぬくための闘いが始まる。引き揚げ早々「ロシアに帰れ」と隊から撥ねられ、満州の曠野に放り出されたビーチャは、まなじり決して南を目指した。コサックの訓練で培ってきた知恵と知識を総動員して。

「左に線路、上に太陽、前方に木。これだけあれば前に進める」

「川は音を立てるんだ。ズドーンとかヴォーンとか。遠くの川の音もよく聞こえる。匂いもする。それでどんな川か分かるんだよ」

一生懸命ビクトルは思い出してくれた。夜は風の音を聞きながら、曠野で眠った。太陽にありがとうと挨拶して、花に言葉をかけながら、コサックの歌を歌った。

悲惨な光景ばかりが語られる引き揚げのなか、こんな命そのものの少年がいたなんて!

野ざらしになった死体の記憶は生々しかった。顔には大量の虫が湧き、真っ黒になった身体はパンパンに膨らんで……。あんまり可哀そうだったから、虫に喰われないよう腹ばいの死体をひっくり返してうつぶせにしていったという。10歳の少年が渾身の力を込めて。

「向こうにいったら、ビーチャありがとうって、それだけは感謝されるかな」

話す場所は、いつも急な坂の上にある昭和の時代で止まったままの居酒屋。電話はまだダイヤル式の黒電話が生きていた。そこのいちばん端の指定席で、ウーロンハイを呑みながら、ビクトルは時々叫んだ。

「俺は10歳まではちょっとは冴えてたよ。だけどその後はただのアホ!」

で、なぜか謝る。

「石村さん、かわいそ。こんなぼけ老人の話聞きに、交通費使ってくるなんて。(十字を切りながら)ごめんなさいね」

だけど格闘家ビクトルの話しになると、笑顔は去って口ぶりも少し重たくなってくる。本にしたいと言ってきた人は何人もいたけど、みんな格闘家ビクトルの話だったからいやだと断ったんだよ。なぜ、いやなのかな?

「格闘技は好きだからじゃない、生活のためにやったんだ。騎馬民族だけの血だけで勝たしてもらったんだ」

日露のハーフで世界的な格闘家には、いろいろなことが押し寄せてきたはず。

「ふたつの血で、きついときもありますよ。日本人として認められるため頑張ったよ」と、ときおりふっと漏らす程度だったが。

「ひどい環境のところには素晴らしい花が咲くんだよ。ボタン、シャクヤク、アザミ、みんなそうだろう」

時々、ちょっとしびれることも言った。シャイだったからね、事のついでのようにして。