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「日本経済はもっと江戸に学ぶべきだ」カリスマ講師が断言する理由

鎖国は最高にアグレッシブな政策だった

新聞やテレビのニュースに触れて、「わかったようでわからない」ともやもやした気持ちになることはないだろうか。現代ニュースを理解するには、今に至る過去のプロセスを知る必要がある。

現代日本の「なぜ」について、日本史から解説した『ニュースのなぜ?は日本史に学べ』を上梓したスタディサプリのプロ講師・伊藤賀一氏が日本経済の進むべき道を世界最大の都市だった「江戸」から導き出す。

 

なぜ江戸幕府は「鎖国」なのに繁栄できたか?

TPPや米中貿易摩擦など、先の読めない日本を取り巻く経済・外交政策。その解決のヒントは、実は江戸時代に求めることができます。まず江戸時代の外国との貿易について考えてみましょう。

強調したいのは、「鎖国は外交政策というより経済政策だった」ということです。じつは江戸時代は、「鎖国」という言葉から受けるイメージほど、鎖国をしてはいなかったのです。

「鎖国」の語源は、オランダ商館のドイツ人医師・ケンペルが『日本誌』を著したさい、その一部を通訳の志筑忠雄が『鎖国論』として翻訳したことにあります。

オランダ商館、すなわちオランダ東インド会社(VOC)という商社の日本支店と貿易しているだけで、国交すらないわけですから、ヨーロッパ人から見れば「国を鎖している」となるのは当然です。

しかし、鎖国体制下の日本は、過去最高に外国との付き合いがよかったのです。

当時、江戸幕府は「4つの口」といわれる窓口をもっていました。

①長崎口
②対馬口
③薩摩口
④松前口

の4ヵ所です。

①長崎口は幕府の直轄地ですから、いわば表玄関。長崎奉行を通じてオランダ、中国(明のち清)のみと貿易をしていました。国交は結ばず、出島にあるオランダ商館と長崎市中の唐人屋敷で貿易するという関係です。これを「通商国」と言います。

②対馬口では、対馬藩の宗氏が、朝鮮(李朝)との交易を幕府から認められていました。対馬は朝鮮半島から最も近い島で、室町時代から朝鮮と交易してきました。この権利が石高の代わりとなり、宗氏は1万石の大名扱いを受けています。

また当時、将軍と朝鮮国王は交流があり、「(朝鮮)通信使」という使節団が対馬経由で江戸に来ていました。このように、(幕府からすれば)国交のみがある国を「通信国」と言います。

③薩摩口では、薩摩藩の島津氏が、幕府から許可を受け1609年に沖縄の琉球王国に侵攻し、王家の尚氏を従え、交易をおこなっています。幕府に対しては、慶賀使と謝恩使という使節団が、鹿児島経由で江戸に来ます。これも表面的には「通信国」ですが、実質的には薩摩藩を通じた「支配国」でした。しかし、中国との主従関係も残し、日中両属形式にしていました。

④松前口では、蝦夷地(現在の北海道)松前藩の松前氏が、アイヌとの交易を幕府から許可されていました。当時の蝦夷地では米はとれませんが、この権利が石高の代わりとなり、松前氏は1万石の大名扱いを受けています。シャクシャインの戦い(1669年)など数度の揉め事を経て、18世紀には実質的に松前藩を通じた「支配地域」となりました。

このように、「鎖国」しているわりには、オランダと中国、朝鮮、琉球、蝦夷地との交流がある。これは、当時までの日本史上、外交的には最も開かれた状態だったのです。

だから、幕末に欧米列強が来航して「引きこもるな!」と言われたとき、じつは日本人は驚いたのです。「え? そんなふうに見えるの?」と。

これが「鎖国」の実態です。また幕府は、4つの口を通じ、貿易の独占に加え、管理をしていました。例外的に交易を認めている対馬藩、薩摩藩、松前藩を厳しく監視し、他の藩には一切認めませんでした。幕府だけが財政の1割弱を貿易によりまかなっていたのです。

ローマ帝国の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」をもじり"パクス・トクガワーナ"とも呼ばれる平和が265年間も保たれたのは、鎖国政策があったからこそ。欧米や東アジアの揉め事に巻き込まれなかっただけでなく、大名に経済力を付けさせないメリットも大きかった。

さらに、外国から文化的な影響を受けなかったことは本来マイナスですが、その分、日本独自の文化が花開きます。髪型や衣服、歌舞伎や浮世絵に見られるオリジナル性が、のちに観光のキラーコンテンツになる、というプラスにもつながっているのです。

グローバル化の進む世界の潮流の中、この「鎖国」のプラス面は参考になると思います。開くところだけ開き、閉じるところは閉じる。何でもかんでもオープンにする必要はありません。