インターネットは民主主義を殺すのか? いま、政治的分断を考える

青い大波に襲われた赤いホワイトハウス
池田 純一 プロフィール

多文化主義が分断を進める?

実際、このようなアイデンティ・ポリティクスの現状に対して批評家のマーク・リラは懸念をあらわにしている。

コロンビア大学教授でもあるリラは、最近邦訳の出た『リベラル再生宣言』の中で、アイデンティティ・ポリティクスは、その実、政治的分断を深めるだけのことで、最悪の場合、デモクラシーを破壊するものとみなしている。

リラにとっては、「政治」の本質とは、人びとが(理想的には)対面して議論することで、互いの主張をひとしきり聞いたあとに妥協点を探るところにある。だから、あらかじめ特定のアイデンティティ集団を想定して、彼らの代表性を確保することに専念することは、社会を断片化させていくだけのものと考えている。

その点でリラは、50〜60年代の公民権運動に端を発する「運動政治(ムーブメント・ポリティクス)」に対しても否定的だ。特にそうした「運動政治」が、しばしば立法ではなく、法廷における判決を通じて自分たちの主張の勝利を得ていることにも難色を示している。

司法による「勝敗」は勝者と敗者を生み出し、その経験の蓄積は互いに敵愾心を募らせる。歩み寄って「妥協」し「統合」を得ること、その意味で「立法」に依拠した、本来の「政治」を取り戻すことがリラの理想だ。

そのためにも彼は、様々なアイデンティティ集団があるのではなく、ただ一つの「アメリカ市民」がいるだけだという立場を取る。

興味深いことにこの考え方は、以前に触れたエマニュエル・マクロン仏大統領の考え方とそっくりだ(参照「フランスがW杯優勝で得た『勝利以上のもの』とは何か」)。

そのときの対比に従えば、リラは、マクロン同様、「統合主義」の立場をとっており、その一方で、社会の多様性を認める「多文化主義」は、アイデンティティ・ポリティクスを促し、結果として、社会の分断を進めるだけのものとして退けられる。

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青い波は2020年にも起こるのか?

このようなリラの主張は、しかし一方で、今がポスト・トゥルースの時代であることを踏まえるといささか時代錯誤のように思えなくもない。

リラの議論では、20世紀前半のフランクリン・デラノ・ルーズベルト時代こそが、彼の求める「政治」の原点であり、その頃にあった「国家的統合感」こそがアメリカを「一つの市民からなる共和国」にすると考えているからだ。

彼からすれば、ルーズベルトの「大きな政府」に代わり「小さな政府」を謳うことで1981年に大統領に就任したロナルド・レーガン以降、ひたすら個人主義を貫くことを目指した「反・政治」の時代が続いている。

そのレーガン時代の傍らで、民主党が取り組んだアイデンティティ・ポリティクスも、先述のように社会の分断を進めたという点で「政治もどき」、すなわち「疑似政治」でしかないのだという。

その「反・政治」、「疑似政治」を踏まえて、再び(ルーズベルト時代の)「政治」に戻るべき、というのが『リベラル再生宣言』の骨子であった。

しかし、ソーシャルメディアを巡るバートレットの議論を振り返るならば、「反・政治」と「疑似政治」のあとに続くのは、「非・政治」、すなわち、政治そのものが意味をなさない状況なのかもしれない。

というのも、政治といって普通の人びとが具体的に想起するのは、日々遭遇する行政サービスのことであり、そのサービスが円滑なく進められることが人びとの直接的な要望となるからだ。

「人民vsテック」においてテックが浮上するのも、「円滑な」サービスの提供にテックが役立っていることにある。となると、「反・政治」ならびに「疑似政治」の時代に常態化した投票率の低下という「政治からの離脱」現象を適切に捉えるためにも、むしろ新しい言葉=概念をつくって対処していく必要があるように思われる。リラの主張がアナクロニズムに見えるのはそのためだ。

 

仮にバートレットが分析したような個々人のサイコグラフィックに照準した世界が今後のデフォルトであるとしたら、その状況を(テックではなく)政治の側で捉え直す言葉遣いを探していかない限り、今回いくらBlue Waveがあったといっても、その波が再び2020年に起こると単純に信じることはできない。

なにしろ、選挙前に「トランプ政権の是非を問うレファレンダム」と多くのマスメディアに位置づけられた上でのBlue Waveだったからだ。だがその危機感も、民主党が下院を取り戻すことでひとまず回避されてしまったことになる。となると今後、何をするかでBlue Waveの帰趨も決まってしまう。

実はすでにそのような議論は、民主党の今後の方針を、より平等主義的な(=プログレッシブ)方向に旋回させるのか、それとも中道寄りに留めるのか、という選択として始まっている。だが、そのような二択の議論自体、マスメディア受けの良い「従来の政治的」議論にすぎないように思われる。

個々人の「マイ・ワンワード」に照準するソーシャルメディア後の世界では、話のきっかけとしてのネタ程度にしかならない。普通の有権者が二択のどちらかだけに自分の代表性を見出すことなどありえないだろう。イデオロギーは(「二択」のような)離散的なデジタルであっても、個々の有権者の嗜好はアナログで連続的なグラデーションとなるからだ。完全なフィット感を特定の政党や政治家に覚えることなどどう見ても不可能なことだ。

となると「自分たちがどうするか」その方針を決めるのはもちろん大事だが、そうした方針が次の選挙に票を投じる人びとの間で「どのように受け止められるか」を想像することも等しく重要だということだ。

この新たに浮上した事実をきちんと受けとめるためにも、バートレットがいささか露悪的とも言えるトーンで記したソーシャルメディアによる社会の変容から学ぶべきことは、想像以上に多いのではないだろうか。