井上尚弥に敗れた男が初めて明かす「モンスターの実像」

怪物に敗れた男たち①
森合 正範 プロフィール

井上に伝えたいこと

名古屋市の松田ジムから徒歩1分の喫茶店。私は佐野と一緒にポータブルDVDで井上戦を振り返った。「この試合はときどき見直す」という佐野は10ラウンドを見終えて、一息ついた。すると、「度胸がすごいんだよなあ」と独り言を漏らした。

「闘っていると分かるんです。人間性まで見えますよ。」佐野はそう言って続けた。

「井上君はパワー、スピード、距離感、技術、柔軟性、目の良さ…全部素晴らしかった。でも、一番凄いのは心だと思う。あのとき20歳ですよね。あれだけ注目されても、周りのことは一切気にならない。格好をつけることもしない。自然なんですよね。落ち着いているんです。それって実はすごく難しいことだと思う。あんな風には誰もできないですよ」

 

佐野は感服するかのように話した。

「心・技・体で言うと、技・体が凄いのに、心が弱いボクサーって多いじゃないですか。うまく説明できないけど、井上君は試合中に心の揺らぎがなかった。どんなときでも平然としているというか。心がしっかりしているから、あれだけのパフォーマンスができる。僕は闘ってみて、ハートがモンスターだと思いました」

28分7秒という長い時間、対峙した者にしか分からない「井上尚弥像」だった。

佐野はその後、1試合をこなし、網膜剥離を患い、グローブを吊した。右目は5回の手術を経て視力を失わずに済んだ。

あの試合から5年半が過ぎ、井上は世界が注目する正真正銘の「モンスター」になった。佐野は仕事に励み、夕方から松田ジムでトレーナーを務めている。

夕方からはトレーナー。丁寧な指導を心掛けている

拳を交えた井上に伝えたいことがある。

「試合をしてくれてありがとうございました。誇りに思っています、ということです。しかも日本人で僕が最初ですもんね。あのとき、僕ができることはやりきった。一生、忘れられません」

井上尚弥との人生を懸けた闘い。記録として残るのは佐野の1敗。だけど、それは勲章であり、敗者の誇り。取材後、佐野は「本当にあの試合をやってよかったな…」と、つぶやき、頬を緩めた。その表情は晴れやかな笑顔へと変わっていった。