井上尚弥に敗れた男が初めて明かす「モンスターの実像」

怪物に敗れた男たち①
森合 正範 プロフィール

両目が見えなくなった

試合当日の4月16日、東京・後楽園ホール。観衆1339人のうち、佐野の応援団150人を除く約1200人の関心はもっぱら「怪物が日本人をどう倒すか」に集中していた。

ゴングが鳴る。互いにジャブ、ワン・ツー、ボディーで探り合う。開始1分20秒。ダイナミックで天高く突き上げる左アッパーが飛んできた。この試合で井上が初めて放ったアッパーだ。佐野は右目に食らい、右まぶたをカットした。

実はこのとき、佐野に異変が起きていた。

「試合であのアッパーが一番効いた。とにかく速かった。パンチをもらった右目だけでなく、あまりの衝撃で左目まで見えなくなったんです。『バン!』と打たれて両目とも見えなくなったんです」

パンチを浴びた反対の目まで見えなくなる。そんなことが起こりうるのか。一発のアッパーで視神経までやられたということだろうか。もちろん佐野には初めての経験だった。

「右目はまったく見えないし、まぶたが切れたのも分かった。左目は例えるなら目に指が入ったときのように曇ってしまった。視界がぼやけているような感覚です」

 

あの瞬間、思ったことがあるという。

「最初の1分くらいで距離を把握され、動きも読まれているなと感じました。要するに僕がこう動くと分かっていて、あのアッパーを打ってきたんです」

井上はことし5月にWBA世界バンタム級王者マクドネル(英国)を112秒で倒した後、「30秒くらいで相手のスピード、タイミングを見切った」と語り、10月のパヤノ(ドミニカ共和国)を70秒でノックアウトした際も「あのパンチが当たるまでの60秒ですごく駆け引きをした」と振り返った。井上には瞬時に相手を見抜く類い希な能力がある。5年前、佐野もまた開始1分余りで「読まれている」と体感したのだった。

「井上は華があるな」。コーナーから見つめていた会長の松田鉱二は心の中でつぶやいた。一瞬、愛弟子の薬師寺保栄と対戦した辰吉丈一郎を思い出す。

「華というのは会長やトレーナーが教えられるものじゃない。生まれ持ったものだからな」

2回。左フックを食らい、吹き飛ばされた佐野はカウント8で立ち上がる。井上はこの後の右ストレートで拳を痛め、3回以降は左手一本で闘うことになった。佐野が回想する。

「井上君の左は多彩で、一発一発のタイミングが違った。ジャブが来ると思ったら来なかったり、また出てきたり。ジャブの軌道のはずが途中から急にフックになったり。そう思ったら、ボディーに来る。動きが柔らかく、パンチに伸びがある。やっていて、これはむちゃくちゃ練習しているんだろうなと思いました」

一瞬たりとも気が抜けない。毎ラウンド必死に食らいついていった。

規格外の一撃

「モンスター退治!」

プロボクサーの水野拓哉は松田ジムの応援団として、佐野に声援を飛ばした。

「佐野先輩が負けないはず。だけど、相手はパンチも返しも反応も避けるスピードもすべてがめちゃくちゃ速い。悔しいけど、強いな」

4回。佐野は2度目のダウンとなる左フックを浴びた。初回のアッパーとともに「衝撃的だった」と振り返るシーンだ。

「僕が右ストレートを打ったら、そのパンチを体と顔を引いて避けながらカウンターの左フックを打ってきた。あれはびっくりしました。避けながら打つなんてあり得ない。規格外ですよ。(フィリピンの世界5階級制覇王者)ドネアでしか見たことがない。今考えると、僕が右ストレートを打ったのではなく、完全に右を打たされたのだと思います」

井上が得意とする「後出しの左フック」。佐野はまるで操られたかのように右ストレートを放ち、気がつくと倒れていた。

だが、意地で立ち上がった佐野は「ここが勝負」とみた。井上が仕掛けてくるであろうラッシュに得意の右を合わせる。頭の中でイメージが浮かんだ。

「力んで倒しに来ると思っていたら打ってこない。すごく落ち着いている。僕が狙っているのがバレていた。このとき、この試合で唯一、井上君の右に合わせて、僕の右ストレートが当たったように見えるけど、もうあと拳1個分(距離が)足りなかった。危険を察知する能力、洞察力がすごくて、これ以上いったらまずいな、という距離には絶対来ない。これは当たらんな、と思いました」

マネジャーの松田はセコンドで止血をするカットマンを務めていた。初回に切った右まぶたの下にもう一つ傷口ができ、吹き出てくる血を必死に止めていた。

「まだ、佐野の目は死んでいない。気合の入った目だ。よし、佐野、行け!」