「昭和の商店街が好き」「約束は守る」

市原正人に戻る。1961年生まれ、やはり名古屋三大商店街のひとつである大曽根商店街の近くで生まれた。昭和の商店街が好き、というのが市原の感性の底辺にある。兄のいる二人兄弟で、中学生までは優等生であり、野球にも没頭する文武両道だった。

しかし頑張りすぎて高校に入るときには脱力してしまう。家から一番近い工業高校に進学。写真家の兄の影響もあり、デザイン科にしようかなと思ったが、デッサンの試験があることを知って、建築科に変えた。

高校には入学したものの、勉強に身を入れることはなく、主にしたのは人付き合いと遊ぶこと。市原は初対面の相手との口約束も破らなかった。誘われたとき「行けたら行くね」と答えると大半は「行かない」が、市原はほんとうに行くのでしばしば驚かれた。次第に「あいつは言ったことは守るやつだ」という評判に。

言ったことは守る、の一環で、成績が悪くて呼ばれた折、先生に次の試験は頑張ることを消極的に約束してしまい、仕方なく努力して成績を上げた。そのおかげで、先生に見込まれ、入れないはずの建築設計事務所に就職することに。

時代はバブルで設計事務所は大忙し、そこで図面から役所への申請、クライアントとの打合せまでこなさざるを得ず、ひととおりの経験を10年ほどで積む。1990年に市原は独立した。円頓寺にかかわるきっかけは、独立して6年後の1996年のことだった。

人との繋がりで街にかかわった

あるとき、円頓寺界隈の古い民家をリノベーションする仕事をした。そのとき近所のおばあさんが現場にお茶を差し入れしてくれて親しくなる。そのおばあさんは元芸妓で三味線を教えていた。工事が終わるころ、おばあさんに「三味線、習いにくるだろ?」と言われ、はい、と答えた市原。寝る間もないほど多忙だったが、約束通り、毎週稽古に通った。工事の近所のおばあさんは「市原のお師匠さん」になった。

稽古の後、お師匠さんは円頓寺のいろんな飲食店に市原を連れていった。こうして円頓寺には魅力的な店があることを知ったのだった。数年後、お師匠さんは癌で突然他界。

しばらく市原は円頓寺商店街から足が遠のいていたが、時間のできた数年後の2003年、円頓寺商店街に足を踏み入れてそのさびれ方に驚いたのだ。

お師匠さんが教えてくれた円頓寺から、これ以上魅力的な店がなくならないでほしいと思ったことが、市原が円頓寺に自主的に通うことになったきっかけだった。お師匠さんとの言外の約束を守りたいという気持ちもあったのだろう。

円頓寺への街へのモチベーションは、人への思いから始まったものだったである。

「よそ者」から「街の常連」へ

市原が始めたことは、仕事が終わると酒を飲みに円頓寺界隈に出かけていくことだった。円頓寺商店街はシャッター街で通りには人が歩いていないのに、お師匠さんから教えてもらった店を始め、飲食店は客がいっぱいいた。そのことの不思議を解き明かしたいと思ったからである。

「店を訪ね歩いているうちに、この界隈のちょっとさびれた感じが、その“ダメな部分”も含めて愛しいな、と思うようになったんです」と市原は言う。

また商店街とは商店だけが存在しているのではなく、下町として人が営みを続けている場であることもわかってきた。そこで、飲みにいくだけでなく、他の場面でも街の人ともっとかかわってみようと思うようになった。