2018年11月10日・11日、名古屋の「円頓寺商店街」は溢れるような人で賑わっていた。2013年から始まった「円頓寺 秋のパリ祭」が開催されたからだ。全長220メートルのアーケードにフランスを感じさせる個性的な店がブースを出し、音楽のライブや大道芸も行われる。

商店街の老舗喫茶店「まつば」のマスターは「開始は11時なのに、8時から店の前に行列ができていました。夕方6時まで、トイレに行けないほどのお客さんでした」と話す。東海テレビは11日の昼に2時間近い生中継を行った。とにかく、通りを歩くのも大変な人出である。

2018年11月、名古屋の円頓寺商店街で5年前から開催されている「パリ祭」。大晦日のような賑わいだ 撮影/齋藤正吉

しかしこの円頓寺商店街、かつては閉店した店が半数にのぼり、野良猫が歩く姿さえ見ないといわれる寂しい「シャッター商店街」だった

「信じられないほど甦り、今熱くなっている『シャッター商店街』があるらしい」――そういう話を聞いてライターの山口あゆみさんが尋ねたのは、昭和40年代に名古屋の「三大商店街」のひとつとして誕生した円頓寺商店街。シャッター商店街は全国で共通の問題となっているが、その復活劇の背景は、昔からある財産をいかに生かし成功させられるかのヒントに満ち溢れていた。『名古屋円頓寺商店街の奇跡』という一冊にまとめた復活劇を、現代ビジネス用に書きおろしてお届けする。

2003年には半数の店舗が閉店していた

街の中心で長年賑わっていた商店街がシャッター街化して元気を失ったまま、復活の兆しがないという現象はいまや日本中の多くの町に見られる。コンサルティングを入れたり、補助金を投入したりして新たな魅力づくりをしても、継続的な集客にはつながらず、商店街は元気を取り戻せない。

名古屋の円頓寺商店街は、そんなシャッター街から甦った商店街なのだ。

しかし今では、店の数も増え、賃貸料も上昇した。シャッター街であった10年前と比べると、坪単価の賃貸料は倍になっている。数が増えただけでなく、商店街が変化してからあらたに開店した店は(個人的事情で閉店した2店を除けば)継続的に繁盛しているのだ。そのことがこの街にあらたに店を開きたい希望者を増やし、賃料を上昇させる大きな理由になっている。

シャッター商店街を甦らせた「よそ者」

円頓寺商店街を甦らせたのは、一人の建築家の活動だ。市原正人、57歳。彼は円頓寺商店街の出身でもなければ、「街づくり」の専門家というわけでもない。資金があって大きな建物を建てたわけではもちろんない。スタッフ数名の建築事務所を営み、活躍する建築家ではあるが、円頓寺とは関連のない仕事がほとんどだ。

市原が円頓寺商店街と関わり始めたきっかけは、ごく個人的な理由だった。しかし彼の活動が続いてゆくにつれ、円頓寺が徐々に魅力的な町に変化していったのである。そしてその変化の仕方は刹那的なものではなく、持続的なものだった。

そうした変化をもたらすことができたのは、市原の商店街との「かかわり方」が決め手だったと思われる。それはいかなるものだったのか。

その前に、円頓寺商店街がどのような街であるかを簡単に説明しておこう。現在の名古屋駅周辺は繁栄がすさまじい。2015年から17年の大規模再開発を受けて大型高層ビルが立ち並び、多くの店舗と客で賑わう。

しかし、名古屋駅が繁華街になったのは新幹線開通の後しばらくしてからである。名古屋市内には江戸時代から発する歴史ある商店街が点在し、長らく人々の生活を支え、繁華街となっていた。

円頓寺商店街は名古屋駅から徒歩15分。名古屋城との間にある商店街で、「清洲越し」に伴ってできた歴史ある商店街で名古屋三大商店街のひとつ。昭和40年代までは通りに自転車が置けないほど人通りがあり、50店舗以上が軒を並べていた。映画館やストリップ劇場などの遊興施設もあり、週末も賑わった。

それが昭和50年代、60年代に近隣駅の廃止など交通インフラの変化や高度経済成長期の消費スタイルの変化など外的環境変化と、後継者の減少などの内的理由の双方で、繁栄を失った。全国の多くの商店街と同様である。

そこからは徐々に店が減り、商店街振興組合の加盟店は平成に入ったころには23店舗になってしまった。円頓寺商店街のアーケードは前述のように220メートルほどなので、そこに片側12店ほどしか開いていないとなると、客足がさらに減ってしまうのも致し方ないだろう。