講談社の礎となった雑誌『雄弁』はこうして誕生した

大衆は神である(27)
魚住 昭 プロフィール

ついに創刊!

『雄弁』創刊号は明治43年(1910)2月11日の紀元節(現在の建国記念の日)に定価20銭で発売された。

発刊の辞の冒頭。

〈雄弁衰えて正義衰う。雄弁は世の光りである。雄弁に導かれざる社会の輿論は必ず腐れて居る。雄弁を崇拝する事を知らぬ国民は必ず為すなきの民である。文化燦然たる社会にはつねに雄弁を要する、又雄弁を貴ぶ気風がなくてはならぬ〉

巻頭は梅謙次郎の演説「薄志弱行論」。ついで松波仁一郎の「吾人の意気」、仁井田益太郎(にいだ・ますたろう)の「日本の対外関係」と、法科教授陣の豪華なラインアップである。鶴見祐輔ら学生雄弁家たちの演説速記や、各地で行われた討論会、学会、演説会の模様を伝える短信も並んでいる。

大半が話し言葉だから、読みやすく、わかりやすい。とくに地方在住の旧制高校生や中学生たちは、『雄弁』で遠い憧れの世界の息吹にふれて新鮮な驚きを感じたのではないだろうか。

編集後記の末尾には「ここまで書いた処へ 書店より電話あり『雄弁』前景気頗るよしと有之候。うれしく筆を擱(とど)むる次第に御座候」とある。

実際、『雄弁』は売れた。初版の6000部はその日のうちに売り切れ、つづいて2版3000部を増刷したが、これも2〜3日でなくなり、3版5000部を刷り足した。計1万4000部である。

 

夢のようです! 夢のようです!

当時、1万部を超える雑誌は希だった。この売れ行きに、大日本図書には、方々からお祝いの手紙や贈り物が舞い込んだ。銀座の本社に酒樽が積み上げられ、店先で杯を上げ「万歳!」「万歳!」の騒ぎになった。

ちょうどそのころ、法科4年の鶴見祐輔は法・文合同事務室を訪ねた。鶴見の顔を見るなり、清治は目を潤ませ、跳びあがらんばかりにして言った。

「夢のようです! 夢のようです! いま電話が(大日本図書から)かかりまして再版が出ました。みんな売り切れて再版です!」

清治の懐には、1万4000部の編集料、420円が「洪水のように入って来た。それも手の切れるような札束である」(『私の半生』)。当時の彼の俸給は65円だったから、これは莫大な収入である。彼は浮かれ立ち、人の顔さえ見れば、それビールだ、それ料理だと、毎日が祝勝会のような騒ぎになった。

『雄弁』は2号、3号、4号と、いずれも1万〜1万1000部ほど売れた。大日本図書から月々入ってくる300円を超える編集料は左衛が捺印して受け取った。清治は大学から帰ると、「おい、金が来たろう。出しな」といって、それを取り上げたから、左衛の手元には1文も残らなかった。