講談社の礎となった雑誌『雄弁』はこうして誕生した

大衆は神である(27)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

清治は苦労しながらも、独特の魅力で周囲を巻き込みながらついに弁論雑誌『雄弁』を創刊する。しかしその直後から、清治の行く手には暗雲がたれ込めるのであったーー。

第三章 大逆事件と『雄弁』、そして『講談倶楽部』─あぶく銭(3)

眼のうるむ人

清治は団子坂の家の門の、一番目立つところに「大日本雄弁会」と大書した看板を掲げた。清治の口述録によれば「向こう(発行元)が大日本図書株式会社と言うならば、こちらは大日本雄弁会でよかろう、少し大きすぎるようにも思ったけれども、何よかろう」というので社名をそう決めたという。

編集作業は、法科学生の大井静雄や、大井の友人で早稲田の学生の野村秀雄(のちNHK会長)らが無給で手伝った。戦後に行われた講談社主催の座談会で『雄弁』創刊にかかわった学生・OBたちは次のようなやりとりをしている。

大沢一六 いったい、つかまえた人は必らずこれを利用せずにおかなかったという点は野間さんのえらいところだ。私が最初野間さんにつかまった動機は、あるとき歩いて帝大の正門を出ると、後から来て、とにかく雑誌をやるが埋草を書いてくれ、あなたは同郷じゃないかといわれたのが一ばん初めです。

僕は中学のころから雑誌部などやったので、埋草なんか書いてもしようがないと思っていたが、だれも印刷や編集のことのわかる人はいなかったので、ついに編集を引受けることになってしまった。片手間のつもりなのが、本末テントウになった。

青木得三 野間さんは眼のうるむ人でしたね。自然にうるむのです。眼のうるむということはいろいろのことを言われるときに感動させられます。

寺田四郎 野間社長は人との対話中にいかにも感動したように声を震わせる癖があった。

大沢一六 相づちの打ち方が上手なんだ。なるほど……なるほど……これには驚く。感心されたと思ってしまう。(略)憂えのありそうな眼と、ふくみ声の哀調の加わる音声で、身体を揺すり上げるようにして演説する。左右に身体を交互に揺すって話す。何となく惹きつけられるところがあった〉

 

清治が群馬師範時代、手鏡で自分の顔を見ながら、人に頼み事をするときの表情や、話し方をさかんに研究していたことを覚えておいでだろうか。彼は人の仕草や話し方が良いと思うと、それをしきりに真似た。

そうした修練の成果は『雄弁』創刊時のさまざまな障害を乗り越えていく際の強力な武器になったにちがいない。学長の穂積も、大日本図書の村田も、そして法科や早稲田の学生たちも、人の心をつかむ清治のマジックにかけられたのである。