人工生命に慰霊碑と花束を(後編)

生命1.0への道 第15回
藤崎 慎吾 プロフィール

主観に満ちた論文をバクテリアがハックする

岩崎さんとシアノバクテリアとの出会いは、芸術における両者のコラボレーションにも発展した。ここで科学と芸術と生命とが緊張感をもってせめぎ合う、岩崎さんの代表的なアート作品を紹介することにしたい。

岩崎さんが中学生か高校生のころ「科学のレポートは客観的に書くこと。一人称や主観的な表現は避けたほうがよい」と言う先生がいた。だから科学論文も、そういうふうに書くものだと思っていた。

実は僕も同じようなことを言われたか、どこかで読んだ記憶がある。後者だとすれば「科学論文の書きかた」みたいな本だろう。それを真に受けながら、実際に何本かレポートや論文を書いたりした(僕も一応、理系なのだ)。一人称を使ってはいけないということで、じゃあどうしたかというと、受動態を多用した。

たとえば「私はバクテリアがGFPで緑色に光るのを確認した」というのを「バクテリアがGFPで緑色に光るのが確認された」というようにだ。そういう表現が、ずっと続いていくと非常に違和感がある。単に主語を隠蔽しているだけじゃないかと感じていたが、その通りだった。

「実際には、その先生が言っていたことは大嘘で、生物の科学論文は国内外を問わず主観に満ちており、エゴイスティックなものでした」と岩崎さんは言う。そこで「Culturing <Paper> cut」という作品を制作することにした。「Culturing」とは「培養する」、「Paper cut」は「切り絵」という意味だが、「Paper」には「紙」の他に「論文」という意味もある。具体的な制作手順は次の通りだ。

まず自分が著者の一人となって書いたシアノバクテリアに関する論文を用意する。アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されたものだから英語だ。

そこから「Interestingly(面白いことに)」とか「quite surprisingly(極めて驚くべきことに)」「Hopefully(望むらくは)」といった主観的な表現や、一人称の部分を切り抜いていく。あの大嘘をついた先生が、あたかも検閲しているような感じだ。

一方で図やグラフは、それを生かすようにしてアーティスティックに切り抜いていく。作品を紹介したビデオでは「科学者たちによる視覚芸術文化の試みとして捉え直したいからだ」と説明されている。

それ以外の余白のような部分には、いつもの抽象的な模様を切り刻んでいく。そこには「生命を想起させる有機的な形態を混在させる」という(写真12)。

【写真】製作途中の切り絵
  写真12 製作途中の切り絵。使われている紙は「サイエンス」誌に掲載された論文の別刷りだ

「こうして切り絵化された論文をオーブンで加熱したり、高温・高圧の蒸気で滅菌する。滅菌された培地に、切り絵=論文をのせていく。主観的な表現が切り取られた部分に、論文の対象となったバクテリアを植える。バクテリアは次第に繁茂し、切り絵=論文をハッキングするように覆っていく。運動するシアノバクテリアは、切り絵と相互作用しながら複雑な模様を生みだしていく。こうして科学的表象の図、工芸的な造形、ジェネラティブなバクテリアの意匠と情報が、共存しながら絡み合う」

以上もビデオからの引用だが「バクテリア」はすべて、岩崎さんが池から採ってきたシアノバクテリアのことだ。「ジェネラティブ(generative)」は「生殖力のある」という意味である。作品が展示されている期間中(破棄されなければ、その後も)、バクテリアは増殖し続ける。そして「論文に書かれている観察される対象(被観察対象)が、今度はその論文を覆い尽くして、主客を混淆させる」のだと岩崎さんは語っている。

ということで、これ以上の説明や解釈は野暮というものだろう。あとは写真とビデオで作品を鑑賞していただきたい(写真13、動画1)。

【写真】2012年版「Culturing cut」の一部1
【写真】2012年版「Culturing cut」の一部2
  写真13 2012年版「Culturing <Paper> cut」の一部を写した写真。切り絵となった論文の上にシアノバクテリアが繁茂している(上)。論文から切り取られた「主観的な表現」にも、バクテリアが絡みつく(下) (提供/岩崎秀雄氏)
  動画1 2018年版「Culturing <Paper> cut」の制作過程を紹介したビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=jQYn1B21n_E

科学に潜む「希薄化されたアニミズム」

「Culturing <Paper> cut」では切り取っていないが、論文からはもう1つ排除すべき(と、あの先生なら言うだろう)表現がある。それは「擬人化」だ。岩崎さんは、あるWeb雑誌の記事(注2)で、次のように書いている。

たとえば、生物学では生体高分子や酵素はほかの物質を「認識する」としばしば記述されるが、これは物理学では通常許容されない記述様式だろう。いや、それは単に特定の分子と衝突し、反応しているだけだ、という反論がありそうだが、ならば敢えて認識するなどという擬人的な表現は避けたほうがずっと「客観的」であるようにも思える。

では、認識ということで何がもたらされているのだろう。それは、分子レベルの「主体性」に他ならない。これは主体概念の上層(細胞や個体)から下層(分子)への一種の還元とみなされなくもない。万物に生命性を認めるのはアニミズムだが、こうして生物学が分子を擬人的に語る時、そこに希薄化されたアニミズムの気配を感じることがありうる。

注2)「生命美学とバイオ(メディア)アート--芸術と科学の界面から考える生命」https://synodos.jp/science/19883/2

希薄化されているとはいえ、科学者がアニミスティックに論文を書いているとすれば、それはかなり衝撃的なことではないだろうか。研究者も人間として、万物に命を見たい、あるいは見てしまう心性を否応なく抱えているとしたら、科学における客観性とは何だろう。それは本当に実現できるのか。

でも、逆に僕のような一般人からしてみたら、とりたててそこに問題があるのかとも思う。少なくとも「生命」に関しては、重層的で個別の要素には分けにくいマーブルケーキだと考えるほうが、妥当なように感じる。でも科学者が、そこから「客観的に捉えられる生命」だけを何とか切りだそうとしているのだとすると、岩崎さんも言うのだが、それは「美学」だ。「孤独な笑みを夕陽にさらして、背中で泣いてる男の美学」というフレーズを、つい思いだしてしまうが、いうなればアートである。それを認めてしまえばいいだろう。

とはいえ、そうもいかない大人の事情はあるかもしれない。