『ルポ西成』26歳のライターが78日間暮らして見た風景

新しい顔を持ち始めたこの街で

日本最大の「ドヤ街」として知られる大阪市西成区あいりん地区。90年に起きた暴動では、火炎瓶が警察署に投げ込まれるなどの様子が、当時テレビでも連日報道された。

さらに2009年に起きたリンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件の犯人である市橋達也が潜伏していたことも明らかになった。だが、近年では外国人観光客を中心に一般の宿泊客も増え、「大阪の下町」として、一昔前のマイナスなイメージは払拭されつつある。

不思議な魅力を秘めた街・西成。昨年春、そんな地で私は78日間を過ごした。大学を卒業したばかりの4月1日。同級生たちがスーツを着て社会人としての第一歩を歩み始めた日だ。

たった3日でなにが分かるものか

大学在学中よりライターとしての活動を始めていた私は、就職先を自信満々で出版社1本に絞った。受けたのは大手3社。めまいのするような倍率で、運もコネもない私は当然のようにすべての会社に落ちてしまった。

そして、大学卒業間近に出版社の彩図社に「編集者として雇ってくれ」と苦し紛れの手紙を書き、同社を訪れた。そこで編集長に言われた一言で私の西成行きは決定した。

「ドカタじゃないんだからこんな手紙で採用が決まるわけはないけどさ、面白そうな奴だから何か本を書いてみてよ」

その際見せた大学の卒業論文が決め手となった。私は新宿都庁前にあるホームレス村の研究をしており、いつか物書きになれたら西成の本を出すと心に決めていたのだ。

筆者の行きつけだった「甘党ハマヤ」


あいりん地区には学生時代に一度だけ訪れたことがあった。そのときの街の印象は“老人たちの楽園”。かつての労働者たちが年老いた今、福祉の街へと変貌を遂げていた。

しかし、当時私が滞在したのはたったの3日間。同じように興味本位でくる人々はいくらでもいる。雑誌やYouTubeを見れば「西成に泊まってみた」「西成潜入」みたいな内容が並んでいる。

そんな姿勢で一体何が分かるというのか? 私は労働者として、西成に足を踏み入れた。

「飯場」にはどんな人々がいる?

何でもかんでも加熱・誇張したがるメディアのせいで、西成と聞くだけで顔をしかめる人までいる。その人たちの一体どれだけが、本当にここで生活をしたことがあるのか。

実際のところ私が肉体労働をしながら滞在したあいりん地区の飯場には、たしかに「犯罪経験者」もいた。シャブ中もいた。なんなら元殺人犯もいた。でも、それはあくまでこの街のひとつの事実でしかない。私はこの街で、実に多くの魅力的な人たちと時間を共にした。

土工として行った尼崎の解体現場の休憩所

「飯場」というのは建設会社の寮のこと。あの市橋達也も飯場に住みながら金を稼いでいた。仕事をするのに身分証もいらなければ、本名すら聞かれない。それゆえ、訳アリな人間が次々と流れ込んでくるのだ。

同じ現場で働いていた「かっちゃん」という男は覚せい剤と傷害で計9回刑務所に入り、私といるときも覚せい剤を使用していた。結局かっちゃんは途中で姿を消した。おそらく10回目のお勤めに行ったのだろう。

隣の部屋に住んでいた宮崎さんというおじさんはフーテンの鑑といったような人物だった。彼の人生をざっくりまとめると以下のようになる。

自衛隊に4年間入隊→マグロ漁船に7年間乗る→ヤクザになる→喧嘩相手を橋から突き落として刑務所→福島で原発関連の日雇い→あいりん地区

福島では避難地域の家屋解体の仕事に就いた。日給は1万2000円だったが、その時の宮崎さんの月収は100万円近い。家屋に残された家具や高級品を片っ端からトラックに詰め込み、各地の質屋を巡業していたというのだ。

しかし、マグロ漁で稼いだお金も質屋で稼いだ金もすべてギャンブルに消えたという。飯場で受け取った日銭もその日のうちにすべて使い果たしてしまうのだ。

ほかにも、証券会社から40日間の有給休暇を取り趣味で飯場に来ているという「虚言癖」のある男、覚せい剤の密売所を襲撃し現金400万円と大量のシャブを奪い取った男など、飯場には新卒1年目の会社員では会うことはないであろう人間がギュッと集まっていた。

社会的には「犯罪者」として一蹴されるような人々かもしれないが、私は彼らに畏敬の念すら抱いた。

解体現場での私の仕事といえば、ユンボで壊した廃材をひたすらトン袋に詰めるのみ。重機でやれば2分で終わりそうな仕事を一日かけて手作業でやらされたりもした。

そんなとき私は「俺、生きている意味あるのか?」と本を執筆することも忘れて考えた。出した結論は「生きている意味はなし」。自分はそう感じたが、彼らはそうじゃない。それぞれに事情を抱えながらも、一日一日を暮らし、酒とギャンブルで日銭を使い果たし、働き続ける男たちを心の底から嘆じた。