二人の高校球児の進路に日本中の視線が注がれていたあの日。水面下では、会議が始まる直前まで、大人たちの虚々実々の駆け引きが繰り広げられていた。
坂井 桑田真澄と清原和博を巡る因縁のドラフトから、もう33年が経つのか。古いことはもう忘れてしまったと言いたいところだけど、さすがに「空白の一日」と「KKドラフト」だけは特別です。
城島 甲子園の「戦後最多勝(20勝)投手」と、「歴代最多本塁打(13本)打者」。それが同じPL学園の同級生で、大親友というドラマ性も抜群でした。
あの当時、僕は彼らと同世代の19歳でしたが、マスコミ各社が桑田の乗った車を空撮するためにヘリコプターまで飛ばしていたのを憶えています。
巨人の王貞治監督から「欲しい選手」と名指しされ、相思相愛で指名間違いなしと言われていた清原と、早大進学を公言していた桑田。世間の多くは、二人がその通りの道を歩むと思っていました。ところがドラフト会議の席上で事件が起きる。
得津 僕はロッテのスカウトとして、あの会場で円卓を囲んでいました。セ・リーグから始まり、阪神、広島、ときていよいよ3位の巨人の順番。
「第1回希望選択選手、読売、桑田真澄17歳投手。PL学園高校……」。パンチョ伊東さんのハリのある声が響き渡った瞬間、会場が一瞬シーンと静まり返りました。そして一転ざわめいた。
「あ、ウソつきやがった」と、巨人のスカウト・伊藤菊雄さんのほうを見たのを憶えています(笑)。
キクさんはその後の休憩時間にも「参った、これは参った」と大げさに頭をかきながらウロウロしていたけれど、心の中では「よく言うよ」と思っていました。
坂井 結局、桑田を指名したのは巨人だけ。単独で交渉権を獲得しました。かたや、清原には私が球団代表を務める西武を筆頭に6球団が競合。抽選になって、ウチの管理部長だった「球界の寝業師」根本陸夫さんが当たりクジを引き当てた。
城島 会議後、会見で涙をボロボロとこぼしながら語った清原に、世間の同情が集まります。それと同時に、桑田の「早大進学宣言」は他チームの指名を回避させるための目くらましで、巨人との間に「密約」があったのではないかと批判が殺到した。
「意中の球団に騙された悲劇のヒーロー」と「ダーティーなエース」。二人にずっとついてまわるイメージが、あそこで決定づけられました。