# フェミニズム

男たちはなぜ「上から目線の説教癖」を指摘されるとうろたえるのか

マンスプレイニングという言葉の持つ力
北村 紗衣 プロフィール

そうした中、接頭辞“man-”は、男性を有徴化する言葉だ。「マンスプレイニング」とか「マンスプレッディング」という言葉には、一部の男性の「男子文化」的な振る舞いが実は例外的に傲慢なのに、なぜか男性中心的な社会では許されがちになってしまっている、という含みがある。

こうした言葉は、普通デフォルト人類とされている男子の文化の中にある作法は実はデフォルトではなかったのだ、ということを示すものだ。

女性は「女医」とか「女流作家」のような自分たちを有徴化する言葉に慣れているのが、おそらく男性は例外化されることに慣れていないのではないかと考えられる。

とくに説教好きとは思えない男性まで「マンスプレイニング」にびっくりしてしまうのは、男子文化の中で大目に見られがちな振る舞いが、実はより広い社会の中で見ると人類のデフォルト礼儀ではない、ということを意外な形で突きつけられてしまうからではないかと思う。

 

ドイルはこの言葉により、男性が「自分たち自身とその振る舞いについて、新しく、あまり居心地は良くないような見方で考える」ようになると言っている。

男性中心的な社会では、男性のほうが力を持ちやすく、そのせいで自分は不作法に振る舞っても許されると勘違いしてしまうこともある。また、礼儀正しい男性でも、他の男性が女性と話す時に男同士の時よりも偉そうだったり、不作法だったりするのに気付かなかったり、気付いてもなんとなく許容してしまうこともあると思う。「マンスプレイニング」というのは、そういう状況を考え直すための言葉だ。

「マンスプレイニング」という言葉に対する好き嫌いは人によって違って当然だし、自分は使いたくないという人ももちろんいるだろう。ただ、この言葉がどういうところから出てきたのか、どういう機能を果たしているのかについて考えるのは、この言葉を受け入れるかどうかとは別にして、とても役立つ。

こんな長い文章を我慢して最後まで読んでくれた方には、できればここから出発して、言葉が人の考えを規定する力を持っていることに思いを馳せてほしい。