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地方出身者はいつか決断を迫られる...私の「Uターン介護」顛末記

故郷の父母をどう看取るか

故郷を離れ、都会で職を得て数十年。実家に暮らす老父母が突然病を得る、ケガに見舞われる。さて、その介護をどうするか? いつかは来ると思いながら、先延ばしにしてきた決断のときは突然やってくる。

18年前、そのときを迎えた伊波さんは、東京での仕事をやめて故郷に帰り、両親の介護をするという決断を下した。10年間の介護の末、父母を看取り、その後、作家としてデビューしたが、その決断に至るまでにはさまざまの葛藤があったという。

故郷までの距離は人それぞれだが、実家を離れて暮らしている限りは必ず決断のときはやって来る。はたして、あなたはどんな決断をするだろうか。

 

「いよいよ来たか」

飲み屋にいたら、携帯が鳴った。

発信元は、沖縄の実家で、母に付き添ってくれているYさんだ。騒がしい店を出て、飲み屋の看板の影でヒソヒソ話す。

携帯を切って、再び店に戻る。

店は出たときと同じように騒がしかったが、私はもうみんなと騒ぐ気にはなれなかった。

電話は、母がまた転倒したというものだった。

都会で働く地方出身者にとって年老いた親の健康状態は、子として気がかりなだけでなく、場合によっては今後の自分自身の生活にも関わりかねない問題だ。

遠く離れた親の面倒を誰が見るか。故郷にしっかり者の兄や世話好きの妹でもいてくれれば安心だが、そうでない者たちはどうすればいいのか。

ふだんは親の顔など思い出しもせず都会で忙しく生きてきた人が、1本の電話でふいに自分もまた誰かの娘(息子)だったことを思い知らされることになる。

もっとも、私にとってその電話は突然ではなかったし、話の内容も予想できるものだった。

母はその数年前から何度か脳梗塞をやっていた。最初は後遺症らしいものもなく、友人たちと旅行に出たりもしている。

しかし、そのうち家事が困難になり、何度か転倒するようになったので、私たちはYさんに家に通ってもらうことにした。

Yさんは明るくよく気のきく人で母との相性も良いようだったが、家庭の主婦だから、年中母に付いているわけにもいかない。

また浮世離れした父は、日常生活ではまったく役に立たない人だ。

(いざとなったら娘の私が帰るしかないだろう)

私には、東京在住でフリーランスのイラストレーターをやっている弟がいるが、結婚しているので、最初から私の勘定には入っていない。

気楽なタチの弟は、自分の稼業は家の中でできる仕事だから、沖縄に帰っても仕事をしながら介護することは可能だと考えているらしいが、関東出身のその妻にとっては自分の親元を遠く離れることになるのだ。それより実の娘である私が帰ったほうがはるかに合理的だ。

母を施設に預けることは考えていなかった。後々そうなるにしろ、その時点の母はノロノロではあるがまだそれなりに身の回りのことはできた。それに、どのみち母のいない家で、寂しがり屋の父が1人で暮らしていけるとは思えなかった。

あの夜の電話の前から、Yさんはそうやってちょくちょく、母の様子を報告してくれ、私はその情報に一喜一憂していた。だが実際は緩やかな下降線を描くなかでの一喜一憂だから、歓声をあげるほどの回復もなければ、飛んで帰らなければならないほどの大事も起こらない。沖縄に帰るという覚悟だけは固めたものの、私はそのタイミングを見極められないでいた。

今、思うと、そのときの私は、いつ鳴るかわからないが、そのうち鳴るのは間違いない目覚まし時計に耳を澄ましているような状況だったと思う。

そうした時間はそのまま、それまで東京で過ごした26年間の意味を考える時間にもなった。

果たして私は東京で何を獲得したのか。

私には人に誇れるような実績はおろか、必死になって何かを努力したという経験もない。ただ広い都会でおもしろそうなパレードに出会い、音楽に浮かれてその後ろをついて歩いているうちに、気がつけば20年以上も演劇の周辺にいたというだけのことである。

仕事の後半は、劇団のスタッフで立ち上げた小さなプロダクションで、私は演出家や脚本家のスケジュールを管理したりギャラ交渉をするマネージャーのような仕事をしていた。職場は居心地が良かったし、東京の暮らしも自分に合っているように思えた。

だが、同時に、そろそろ自分の限界のようなものが見え始めていた頃でもあった。これまでは楽しかった。今だって楽しい。この先もそれなりに楽しくはあるだろう。でもこれからはたぶん同じような日の繰り返しで、あまり新しいことは起こりそうにないという気もし始めていた。

また、母の転倒もやはり気になる。

(そろそろパレードを離れて家に帰ってもいい頃かもしれない)

Yさんの電話の数日後に、私は「よし、帰ろう」と決めた。

若かりし頃の伊波さんのお母さん。戦中戦後をたくましく生きた沖縄の女性だ

ときは2000年、母が74歳、私は46歳になっていた。