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小林秀雄はなぜ太平洋戦争に「黙って処して」反省しなかったのか

歴史を殺せば人間も死ぬ
ここ数年、出版界は歴史書ブームだ。定説となっていた事実や人物像が覆されるところに、こうしたブームの理由がありそうだ。しかしこの動きは、私たちの骨の髄まで染まっている近代的な進歩的歴史観までも覆していけるだろうか。適菜収氏は、小林秀雄は歴史を「生身の人間のいるところ」と捉え、後から歴史を裁断する人間の傲慢さに憤ったという。『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?』から小林が歴史を見る目とは何かをご紹介しよう。

人間のいないところに歴史はない

近代人は時間の経過とともに人類は進化してきたと考えるようになった。学校の教科書には、一番左にアウストラロピテクスのイラストが、一番右にわれわれ現代人のイラストが描かれていたりします。人類は古代から中世、近代へと一直線に進歩してきたという西欧中心のいわゆる進歩史観です。

昔の人間よりも現在の人間のほうが、理性的で合理的で優れていると彼らは考える。理性的で合理的な判断が「正解」にたどりつくなら、「正しい歴史」「歴史の目的」も存在することになる。

 

ドイツの哲学者ヘーゲルは、世界は弁証法的な運動の過程にあると考えた。いろいろな矛盾や対立を発展解消していくうちに、理念が実現されるようになると。歴史を弁証法的に捉えれば進歩史観になるが、小林はこうした発想自体を拒絶しました。

私達は、歴史に悩んでいるよりも、寧(むし)ろ歴史工場の夥(おびただ)しい生産品に苦しめられているのではなかろうか。例えば、ヘーゲル工場で出来る部分品は、ヘーゲルという自動車を組立てる事が出来るだけだ。而(しか)もこれを本当に走らせたのはヘーゲルという人間だけだ。そうはっきりした次第ならばよいが、この架空の車は、マルクスが乗れば、逆様(さかさま)でも走るのだ。──「蘇我馬子の墓」

ドイツ出身の哲学者マルクスは、ヘーゲルの弁証法を利用して、歴史科学なる概念をつくりあげた。

あらゆる歴史事実を、合理的な歴史の発展図式の諸項目としてしか考えられぬ、という様な考えが妄想でなくて一体何んでしょうか。例えば、歴史の弁証法的発展というめ笊(ざる)で、歴史の大海をしゃくって、万人が等しく承認する厳然たる歴史事実というだぼ沙魚(はぜ)を得ます。──「歴史と文学」

ヘーゲルのような妄想の体系を打ち立てれば、歴史はどのようにでも解釈できる。ヘーゲルは歴史上の一人物に過ぎず、歴史がヘーゲルのシステムのなかにあるのではないと小林は言う。

史観は歴史を考えるための手段であり道具にすぎない。しかし、その手段や道具が精緻になるにつれ、当の歴史の様な顔をし出す。

人間は理性的で論理的で合理的だ。そこが人間の弱さである。だから簡単に理論に流される。よって、小林が言うように「人間のいないところに歴史はない」という常識を、常に努力して救い出さなければならない。