2011年3月、アラブ諸国で発生した大規模反政府運動「アラブの春」がシリアにも波及した。45年近い一党独裁を掲げる政府に対し、市民は大通りに立って政治改革を主張した。
しかしこうした民主化運動を政府は武力でもって弾圧し、多くの死者や逮捕者が出た(運動への参加者は"国家反逆罪"で逮捕された)。やがて自らを守るため、民衆は武装して政府に相対する。
こうして生まれた反体制派がシリア全土に乱立し、政府との武力衝突を繰り返した。シリア内戦の始まりだった。
パルミラの街でも民主化運動が起き、武力衝突が相次ぐと、アブドュルラティーフ一家の暮らしにも暗雲がたちこめた。
2012年には六男のサーメルが運動への参加によって逮捕された。サーメルは指名手配を受けてから半年間沙漠で身を潜めたが、幼い子供と妻に会うため数ヵ月ぶりに家に帰ったところを逮捕された。
それは一家における初めての内戦の被害だった。以降、同じく運動に参加していた九男のジャマール、十二男のラドワンも逮捕を恐れてヨルダンへ逃れることとなった。
「シリアから離れることを最後まで望まなかった。でも生き延びるために仕方なかった」ラドワンは回想する。
兄のサーメルが逮捕されてから時を置かず、母親から電話があった。「お願いだからシリアを離れてほしい」母親からの切実な頼みだった。
シリアに留まってはラドワンもサーメルと同じ道をたどることになる。母親は息子たちがこれ以上拘束されるのに耐えられなかった。
生きてさえいればきっといつか会える、それまでこの国を出てほしい。母親の決意にラドワンもまた心を決め、母と子は黙って電話口で泣いた。
2011年8月、ラドワンはシリアを去った。逮捕の恐れのある正規の国境検問所からではなく、秘密裏に沙漠から越境をしヨルダンに逃れた。
その後のラドワンは難民として辛酸を嘗めた。シリア難民が生まれ始めた頃だったため難民への支援が整っておらず、飢えにも直面した。
ヨルダンの首都アンマンで路上生活を送り、働ける仕事はなんでもやった。建設現場、路上のライター売り、レストランの裏方や配達員など。しかし働けど働けど、シリア人の労働賃金はヨルダン人の半額以下で、生活は厳しいままだった。