アウシュヴィッツは「ホロコーストの代名詞」か?

惨劇を理解するための5つのポイント
田野 大輔 プロフィール

これはポーランド占領地域のユダヤ人やポーランド人の住民を立ち退かせ、そのかわりにドイツ本国のドイツ人や在外の民族ドイツ人を入植させて、この地域全体を「ゲルマン化」しようという壮大な計画の一環をなすものだった。

この民族浄化を目的とする政策は1940年初頭にポーランド西部のドイツ編入地域から実施され、まずその地域のユダヤ人の一部がポーランド東部の属領とされた「総督府」に強制移送された。

この強制移送を円滑に進めるため、当面の措置として各都市に設けられたのがゲットーである。それはあくまで一時的な中継地にすぎず、恒常的な定住地ではなかった。

ユダヤ人の移送先と考えられていたのは当面の間はソ連と境界を接する総督府だったが、1940年半ばのフランス占領後に一時マダガスカル島への追放が検討された後、41年6月の独ソ戦開戦後にはソ連の領内への追放が現実味を増していた。

 

ところが1941年末に独ソ戦が膠着状態に陥ると、こうした計画も行き詰まってしまった。その間にもドイツ本国からのユダヤ人の移送がはじまり、各地のゲットーが極限状況に陥るなか、行き場を失ったユダヤ人の処遇が焦眉の問題となってくる。

こうして総督府に3つの絶滅収容所が建設され、ユダヤ人の大量殺戮がはじまることになった。1942年1月にベルリンで開かれたいわゆる「ヴァンゼー会議」は、ユダヤ人の追放から絶滅へという政策の転換を確認し、その対象をヨーロッパ全域に拡大するものだった。

④独ソ戦をきっかけに大量虐殺の技術が「進化」した

しかし実はこの会議が開かれるよりも早く、ソ連占領地域ではすでに別の形でユダヤ人の大量虐殺がはじまっていた。

1941年6月、ユダヤ=ボルシェヴィズム(ユダヤ人と共産主義を同一視するイデオロギー)の殲滅を旗印にはじまった独ソ戦は残虐きわまる絶滅戦争だったが、その情け容赦ない殺戮を担ったのが親衛隊や警察のメンバーで構成される移動虐殺部隊(アインザッツグルッペンなど)だった。

これらの部隊の任務は前線の後方で人種的あるいは政治的な敵とされた人びとを殺害することで、その対象には共産党委員やパルチザン、そして何よりもユダヤ人が含まれていた。

独ソ戦開始後にドイツ軍が破竹の勢いでソ連への侵攻を開始すると、移動虐殺部隊はバルト諸国からベラルーシ、ウクライナ、ロシアの一部にいたる広大な地域に侵入し、地元住民の協力のもとユダヤ人の住む先々に出向いて虐殺を実行していった。

当初は主にユダヤ人の男性に限定されていた殺戮は、やがて女性や子どもにも無差別に降りかかるようになり、町や村のユダヤ人コミュニティを根こそぎ壊滅させるなど、その苛酷さを増していった。

ユダヤ人の母子を銃殺する移動虐殺部隊〔PHOTO〕Wikimedia Commons

この殺戮の被害は恐るべきもので、1941年末までの半年間で犠牲者は50万人に上った(最終的な犠牲者数は130万人に上る)。各町村のユダヤ人は集団で郊外の処刑場に連行された後、そこに掘られた穴のところで銃殺され、そのまま埋められた。