アウシュヴィッツは「ホロコーストの代名詞」か?

惨劇を理解するための5つのポイント
田野 大輔 プロフィール

②長らく忘却されていた絶滅収容所があった

これに対して、ユダヤ人犠牲者の大多数は強制収容所を目にすることもなく、すでに別の場所で組織的に抹殺されていた。その恐るべき殺戮が遂行された場所こそ、1942年前半にポーランド東部に設立されたベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの3つの絶滅収容所である。

この3収容所の冷酷さを際立たせているのは、それらがもっぱらユダヤ人の殺害のみを目的とした施設だったことである。

貨車で収容所に到着した人びとは、殺戮業務を補助する特務班(ゾンダーコマンド)の要員に選ばれたごく少数の男性を除いて、ほぼ全員が荷降場からガス室に直接誘導され、即座に殺害された。こうした迅速な殺戮プロセスは、犠牲者が労働力としての価値すら認められていなかったことを意味している。

ワルシャワ・ゲットーからトレブリンカに移送されるユダヤ人〔PHOTO〕Wikimedia Commons

さらにまた、この3収容所で殺害された人びとの大部分が、周辺の「ゲットー」から移送されてきたポーランド系のユダヤ人だったことも見逃せない。

ゲットーとはドイツ占領下のポーランド各地の都市内に設けられたユダヤ人の隔離居住区域のことで、映画『戦場のピアニスト』でも描かれているように、1941年後半には飢えや病気により多数の死者を出すなど壊滅的な状態にあった(ゲットーでの死者は100万人に上る)。

こうした状況のなか、ドイツ当局はゲットーを完全に解体してユダヤ人住民を立ち退かせるとともに、行き場を失う彼らを抹殺するための施設として絶滅収容所の建設を開始する。

このいわゆる「ラインハルト作戦」で設立された3収容所により、最終的に175万人が犠牲になったといわれる。

いずれの収容所も殺害専用でほとんど生還者がおらず、1942年末から43年後半にかけて順次閉鎖・解体されたため、その存在は戦後長らく注目を浴びることがなかった。このため、そこで大量殺戮が行われたという事実そのものが、人びとの記憶から消し去られてしまったのである。

 

こうした事情から戦後のイメージのなかで、犠牲者の中核をなすポーランド系ユダヤ人の相対的な重要性が低下した面があることは否定できない(ちなみに映画『ショア』はこの3収容所の存在にも目を向け、その実態の掘り起こしを行っている)。

③移住政策の破綻が絶滅収容所を生み出した

だがそれにしてもなぜ、ユダヤ人はゲットーに集住させられたのか。これを理解するためには、ナチスのユダヤ人政策の紆余曲折を押さえておかなければならない。その経緯は以下の通りである。

1939年9月に戦争がはじまるまで、ナチスはユダヤ人への法的差別や経済的圧迫、さらには露骨な暴力行使を通じて、彼らの国外移住を促進することに重点を置いていた。

その最大のあらわれが、1938年11月にナチ党の扇動によって全国各地で発生した反ユダヤ暴動、いわゆる「水晶の夜」である。

「水晶の夜」の暴動で破壊されたユダヤ人商店〔PHOTO〕Bundesarchiv, Bild 146-1970-083-42

だがこのような政策はかえってユダヤ人を困窮化させ、出国を停滞させる結果となっただけでなく、開戦後まもなくドイツがポーランドを占領し、その地でさらに大量のユダヤ人を抱え込むと、完全に行き詰まることになった。

そうしたなかで浮上してきたのが、「東方」(ポーランド東部およびソ連)への強制移送という方策である。