日本の憲法学は本当に大丈夫か?韓国・徴用工判決から見えてきたこと

いま日本政府が追求すべきことは何か
篠田 英朗 プロフィール

日本における原爆被害者の例を見てみよう。

米国による広島・長崎への原爆投下は、国際人道法違反の疑いが強い。サンフランシスコ講和条約にかかわらず、国際人道法違反による不法行為に対する損害賠償請求は可能だ、という主張の余地は、理論上はありうるかもしれない。

しかし実際には、日本政府は、独自の被爆者救援制度を導入し、対応している。それは戦後国際秩序を尊重し、日本と米国の間の特別な関係に配慮して、米国に対する損害賠償請求の可能性を排除する要請と、被害者を救済する要請とを、「調整」している結果だと言える。

請求権協定を結び、それにもとづいて経済支援も受け取った韓国政府は、同様の措置をとる責任を負っていると解釈すべきだろう。

最近、日本の中国向けODAの終了が宣言されたが、経済支援には賠償の代替という意味もあった。その役割を中国側も評価する形での宣言となった。現時点では中国に賠償問題を持ち出す様子はなく、中国に対する経済支援措置は奏功したと評価できる。

日韓の請求権協定は、経済支援が主な内容となっていた。個人救済の必要性を否定することなく、日韓の間の請求権をめぐる紛争を防ぐのが、協定の趣旨なのだ。両国政府は、この協定の趣旨に、依然としてコミットしている。

日本政府が追求すべきなのは、こうした「調整」措置の可能性であると思われる。したがってまずは韓国政府が、そうした「調整」措置を取ってくれるかどうかを見守り、支援するべきだ。

 

日本の憲法学の「憲法優位説」は大丈夫か

大韓民国憲法は、その前文で、次のように宣言している。 

「悠久なる歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動によって建立された大韓民国臨時政府の法的伝統……を継承し……」

「三・一運動」とは、韓国併合後の1919年に、日本の統治に反対して沸き起こった運動のことを指す。

つまり、韓国の憲法それ自体が、日本による統治を否定して作られた「臨時政府」の正当性を認め、その「法的伝統」なるものを受け継いでいることを宣言しているのである。

そう考えると、韓国大法院が「植民地支配と直結した不法行為」について語ること自体は、少なくとも国内憲法との関係で言えば、ありうることである。

もちろん大韓民国憲法は、その第六条一項において、次のようにも定めている。

「憲法に基づいて締結し、公布された条約および一般的に承認された国際法規は、国内法と同等の効力を有する」

韓国政府は、自国の大法院の決定を理由にして、国際法(二国間協定)遵守の義務の免除を唱えることはできない。韓国大法院も、請求権協定それ自体を否定したわけではなかった。ただ今回、韓国大法院は、自ら「調整」を試みることもはしなかった。

むしろただ伝統的な協定解釈を否定し、国際法に対する憲法優位説をとるかのように、「三・一運動によって建立された大韓民国臨時政府の法的伝統」にそった立場を選択した。

国際法を見ず、「調整」の必要性を認めない教条的な国内法学者は、日韓の違いを見ず、一方的に憲法優越説を唱える。

日本の司法試験受験者の必携の書である芦部信喜『憲法』から引用してみよう。

「通説・判例は、①条約が憲法に優越すると解すると、内容的に憲法に反する条約が締結された場合には、法律よりも簡易な手続によって成立する条約によって憲法が改正されることとなり、国民主権ないし硬性憲法の建前に反すること……などを論拠として、憲法が条約に優越するという立場(憲法優位説)をとる……」。

しかし、日本国憲法は、憲法学者が作ったものではない。むしろ国連憲章などの国際法規範を重視する者たちが作ったものである。

もともとは、日本国憲法前文も、九条一項も二項も、国際法との「調和」を希求する意図で作られたものなのだ。それらの解釈は、すべてその前提で行うのが、本来の正しい解釈姿勢であるはずなのだ。

ところが、日本の憲法学者は、そのような解釈を否定する。そして憲法学の基本書を根拠として、声高に「憲法優位説」を主張し、いわば日本の憲法学通説の国際法に対する優越を主張する。

こういった教条的な態度は、危険である。日本でも、韓国でも、危険である。

国際社会の秩序を重んじ、国際法をふまえた「法の支配」を尊重するならば、憲法の尊重は、国際法の軽視のことではない、ということを、真剣に受け止めなければならない。