2018.11.10

イギリスのアンダークラス=チャヴの出現は「過酷な階級化」の序章だ

連載「イギリス階級物語」第1回・後編
河野 真太郎 プロフィール

ポート・タルボットの風景から

さて、では、そうではない階級の物語はどのようにして語られうるのだろうか。本連載でひとつの軸としていきたいのは、ここまで述べたような階級からの離脱、もしくは労働者階級全体の中流階級化の物語とは逆行する階級についての物語である。

それは、ひと言で言えば、コミュニティとしての労働者階級の物語だ。そしてこの物語は、ピグマリオン的物語が主流である中で、なかなかに出会えず、理解しにくいものであろう。

個人的な体験を述べさせていただきたい。わたしは2015年から16年にかけて、イギリスのウェールズに在外研究のために滞在していた。住んでいたのはウェールズ第二の都市スウォンジーであった(詩人のディラン・トマスの出身地として有名である)。

そのスウォンジーの隣に、ポート・タルボットという町がある。ポート・タルボットには大きな製鉄所があり(それ自体、19世紀にウェールズが炭坑地帯として隆盛した時代からの名残であるが)、町全体が製鉄の町、したがって労働者階級の町という雰囲気である。

ところがポート・タルボットの製鉄所を所有しているのは、インド系グローバル製鉄企業タタ製鉄である。このタタ製鉄が、2015年末に、グローバルな価格競争を理由にポート・タルボットの製鉄所を閉鎖もしくは売却すると発表したのである。

製鉄所の労働者のみならず、ポート・タルボットの町全体と、町の人びとに共感する人びとが、これに対して反対の運動を展開した。この時にキーフレーズとしてわたしが何度も耳にし、目にしたのが、「コミュニティ(共同体)を守れ」というものであった。

photo by Gettyimages

おそらく、イギリスの人びとにとって、このような形でコミュニティという言葉を使うことに、それほどの違和感はないのかもしれない。しかし、わたしは、製鉄所存続の意義が「コミュニティを守ること」として語られる、ということには、新鮮な驚きを覚えたのである。

おそらく本稿の読者も、驚くか、理解できないかのどちらかではないだろうか。

このようなコミュニティという言葉の用法の背後には長い歴史がある、というのがわたしの直感であった。事実、労働者階級は、単なる経済的区分や、人から押しつけられた文化・社会的区分を超えて、連帯・団結して自分たちの生活と文化を形作り、それを守っていくという意味でのコミュニティでもあってきたのだ。

このような意味での階級は、ここまで述べた、そこから脱出すべきもの、そしてさらには全体として解体され、中流階級化されるべきものとしての労働者階級とは、真っ向から対立するものに思える。コミュニティとしての階級とは、守られるべきものであり、そこに属する人間を守ってくれるものである。

これは、伝統的には「階級意識」の問題として論じられてきた。イギリス労働者階級は「われわれとやつら(us and them)」という対立(やつらというのは中・上流階級もしくは「エスタブリッシュメント」と呼ばれる体制側の人びとこと)によって、自分たちのコミュニティのアイデンティティを強調してきた。

このような敵対的なアイデンティティの形成は、今日でも例えば2016年のEU離脱国民投票とその結果、いわゆるブレグジットでも表明された。ブレイディみかこ(『労働者階級の反乱──地べたから見た英国EU離脱』)が論じるように、EU離脱に賛成投票した労働者階級は、排外主義的である前にEUとその擁護者たちを「エスタブリッシュメント」として見て、それに「中指を突き立てた」のかもしれないのだ。

(ちなみに、ポート・タルボットにおいても投票の結果は圧倒的なEU離脱であった──ブレグジットと労働者階級の排外主義については連載の最後に論じる予定である。)

それは、連帯の感情とも言い換えることができる。ふたたび『わたしは、ダニエル・ブレイク』を参照するなら、ダニエルが役所の壁に、スプレー缶で「わたし、ダニエル・ブレイクは飢え死にする前に上告の受理を要求する……」などという落書きをして座り込む場面が印象的である。

通りの人びとはそれに喝采を送り、通りかかったおじさんはダニエルに上着を譲ろうとする。このような連帯の感情は映画の中だけの出来事ではない。いまだに、イギリスには、労働者階級同士のこのような連帯の感情が存在する。

すると当然に、次のような疑問が生じるだろう。それでは、労働者階級は労働者階級であることに誇りを持ち、労働者階級のままでいた方がいいというのか? 労働者階級の中流階級化というのは、一概に悪いことなのか? 賃金が上がり、豊かな生活が送れるようになったならそれでいいのではないか?

これらの疑問に対して、わたしは単なるイエス、また単なるノーの回答を持っていない。これらの疑問への答えは、本連載の全体を通じて出していきたい。ただ、今回の序論で言えることは、そのような「上昇」の単純な物語こそが、現在苛烈になりつつある階級の分化と貧困の問題の遠因になっている、ということである。

『キングスマン』が現実のチャヴを覆いかくしたように、「われわれはいまやハッピーな中流である」という物語は、その中流に仲間入りできなかった人びとを、努力不足の怠け者として排除しているのかもしれないのだ。

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