雑誌『雄弁』創刊のウラには野間清治の「大失敗」があった

大衆は神である(25)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

明治43(1910)年、「大逆事件」の嵐が吹き荒れ、官憲は言論人と「社会主義者」たちを一斉に検挙した。一方その頃、弁論雑誌『雄弁』の創刊前後の清治は、ある困難に直面していた――​カネの工面である。

 

第三章 大逆事件と『雄弁』、そして『講談倶楽部』―あぶく銭 (1)

はっきりしているのは……

緑会弁論部が明治42年11月、学長の穂積八束(ほづみ・やつか)の反対を押し切って発足した経緯はすでに述べた。発起人代表の寺田四郎によると、清治が発会式のあと、しばらくしてやってきて、

「実は、あの発会式の速記を反訳して穂積学長にお目にかけたところ、『これは何でもない。時勢の変化だな』と言っておられた」

と、伝えた。心配したような過激な演説はなく、学長も納得しているという意味である。

穂積は速記原稿を全部、清治に下げ渡した。そこで清治は「こういう立派な原稿をこのまま捨てるのはもったいない。何かやろう」と、雑誌『雄弁』の発行を思い立った。

というのが、寺田証言なのだが、清治本人は口述録でこう語っている。

〈(発会式の)前から、それを一つ物にして、何か講演集みたようなものでも作ろうか、あるいは雑誌でも出そうか、必ず良い雑誌ができるに違いない。その時分大学の先生の講演などいうようなものはなかなか世間では聴くことはできない。(略)梅先生もこのことには賛成である。で、私はそれを輯(あつ)めて雑誌を出すということを思いつきました。思ったばかりでなく、それを学生諸君にも話した。学生諸君もそれを賛成してくれました。速記はどこへ頼んだらよいだろうというようなことで調べると、(速記者の)荒浪市平(あらなみ・いちへい)君が大学の穂積八束先生などの速記をしにきておった時であって、荒浪さんに話したらよかろうと、荒浪さんに話をした〉

寺田と清治の証言は微妙なところで食い違っている。雑誌の発行を思い立ったのは発会式の前だったのか、後だったのか。そもそも速記をとったのは、穂積への報告のためか。それとも雑誌発行のためだったのか。どちらとも、私には判断がつきかねる。ただ、はっきりしているのは、この明治42年11月当時、清治が経済的困難に直面していたことである。

株将軍

清治は『私の半生』で、同年4月に長男・恒(ひさし)が生まれたとき、自分の功名心に拍車がかけられ、「自分の目標の未だ定まっていないことに焦り出して来た」と述べたうえで、こう振り返っている。

〈この時分、あちらへ行ってもこちらへ行っても、金儲けの話をしきりに聞かされたものである。官吏とか教育家の間に於てさえも、「米」はどうだとか、「株」がどうなったとか言っているので、初めのうちは不思議な思いをして、眼をパチクリさせていたが、日露戦争の勝利に引き続いて(略)各種の「株」の非常なる活況、あちらに成金が出来たとか、こちらに成功者が現れたとかいう時代でもあったので、いつしか、私もそういう方に気持が誘われていった〉

ある日、清治は群馬師範の先輩で、小学校の教師をやめて茅場町で菓子店を営んでいる友人を訪ねた。友人宅の裏が米相場のノミ屋だった。友人がそこを介して、面白そうに米相場をやっているのを見て、清治も興味をもった。『私の半生』のつづきである。

〈つい私もやる気になった。そんなことから、だんだん「米」に興味を持ちはじめ、そのうちに「株」にも手を染めるようになって行った。浅はかにも、富を得るにはこれに限ると一途に思い込んだのであります。