ブレグジットを大きく揺るがす「アイルランド国境問題」とは何か

重大局面を迎えた離脱交渉の行方
笠原 敏彦 プロフィール

国境の状況はどう変わったのか

それでは、ブレグジット交渉で焦点になっている北アイルランドとアイルランドの国境(約500キロ)の状況は、和平合意によりどのように変わったのだろうか。

筆者は和平合意の翌99年にカトリック系過激派・アイルランド共和軍(IRA)とイギリス軍の戦闘が特に激しかった英領側国境の町ニューリーを訪れた。

ニューリーにはIRAのロケット砲にぶち抜かれた民家が遺跡のように残る一方で、イギリス軍の監視塔が建っていた場所ではマンション建設の槌音が響いていた。

この町の失業率は和平合意前の25%から8%へと劇的に低下していた。

かつては厳しい検査が行われていた幹線道路の検問所はすでに撤去されていた。車で国境を通過しても、変化を感じるのは車線の色が白から黄色に変わることぐらいだった。

〔PHOTO〕gettyimages

国境を挟んで20キロの位置にあるアイルランドの町ダンダルクの工業団地では、多国籍企業の進出ラッシュが起きていた。アイルランドは単一通貨ユーロを導入し、英語を公用語とする唯一の国である。和平により治安が安定したため、アメリカ企業などがEUへのゲートウェーとして価値を見出していたのである。

和平合意により、住民らは通勤や買い物で自由に国境を往来できるようになっていた。

イギリス通貨ポンドとユーロの為替相場を見ながら、国境のどちら側で買い物をするのが得かを決めることができるという思わぬメリットまで生まれていた。

さらに、和平合意の取り決めにより、北アイルランド住民はイギリスとアイルランドの両方のパスポートを持つことも認められるようになった。つまり、都合に合わせて両国のパスポートを使い分けることさえも可能なのである。

 

EUも、アイルランド島の南北の統合を促進するために国境をまたぐ投資を積極的に進めてきた。

アイルランドと北アイルランドは今や、投資や外国人観光客の呼び込みなどで「オール・アイルランド」の取り組みを強化している。

その統合は、「ダブリンーベルファスト経済回廊」とも呼ばれるほどに進んでいる。

ニューリーに住むカトリック系の中年男性は「国境はもはや地図の上にしか存在しない」と話し、アイルランドとの統一については優先課題ではなくなったと語っていた。

イギリスの思惑通り、住民らは経済的な「平和の配当」を実感することにより、帰属問題を従来ほど重視しなくなっているように見えた。

北アイルランドとアイルランドの国境検問を復活させることは、合意以来過去20年間に渡って積み上げてきたこうした和平の成果を水泡に帰しかねないことを意味するのである。