「乃木も、アー人を殺しては……」明治天皇の名言・珍言をご存知か

文化の日は明治天皇の誕生日です
辻田 真佐憲 プロフィール

「乃木も、アー人を殺しては、どもならぬ」(1904年、51歳)

もっとも、明治天皇は単に、京都ラバーなワガママ酒飲みだったのではない。新生日本の君主として時に立派に振る舞い、側近や国民の崇敬を集めた。日清・日露戦争では倹約にこれ努め、戦没者の名前(将校以上は写真も)にすべて目を通した。

日露戦争では戦死者も多かったため、この負担も重かった。それでも天皇はじっくりと読み通し、

「佐藤と云ふ名前の者が大変沢山あるな」
「加藤と云ふ名前が多い」
「此名は何と訓むか。是はどう云ふ意味か誰かに尋ねて見よ」

などと側近に語りかけた。

このように天皇は戦死者を気にかけていたので、5万9000人もの死傷者を出した、1904年の旅順攻略戦には心を痛めた。

「旅順はいつか陥落するに違ひないが、あの通り兵を殺しては困つた。乃木も宜いけれども、あゝ兵を殺すやうでは実に困るな」

乃木とは、いうまでもなく第三軍司令官の乃木希典のことである。乃木への懸念は間違いなかったようで、ほかにも、

「乃木も、アー人を殺しては、どもならぬ」

との言葉が残っている。

もっとも、乃木の解任には反対で、

「よい、よい、其儘でよい。乃木にさせろ」

とも述べていたという。

君主が臣民を慈しむのは当然と思うかもしれないが、現実にはそう簡単ではない。第一次世界大戦で失墜した皇帝や王族がなんと多かったことか。このあたりが、明治天皇が大帝と呼ばれたゆえんでもあろう。

 

「わしなぞ死んでもかまはぬ」(1911〜1912年、58〜59歳)

身体頑強だった明治天皇も、50代に入ると段々と体力が衰え、病に悩まされるようになった。晩年には電車での移動も辛く、

「かう揺れてはどもならぬ。運転が下手ぢや。早過ぎる。もつとゆつくりやらせ」

と注文をつけ、予定を遅らせる事態も生じた。

日露戦争後の世の乱れも重なり、天皇は厭世的になり、

「わしなぞ死んでもかまはぬ。ほつておいてくれ」

などと語り、養生にも後ろ向きだった。結局、天皇は1912年7月、59歳で崩御した。当時としては長命だったものの、もう少し節制すれば、より長生きできていたかもしれない。

明治天皇というと、やはり「御真影」の厳然たる姿が先行する。話題になる言葉も、それに見合ったものばかりだ。だが、その内発的な言葉には違った味わいもある。今回その一端を紹介した。硬直したイメージが、少しでも解きほぐされれば幸いである。

【参考文献(明治天皇の言葉の出典)】
宮内庁(編)『明治天皇紀』第1〜13巻、吉川弘文館、1968〜1977年。
園池公致、長谷信昊、北小路三郎、坊城俊良、平松時賢、岡崎泰光、久世章業、山川三千子、甘露寺方房、穂穙英子、山口節子、甘露寺受長「座談会 明治大帝の御日常を偲び奉る」『新民』13巻7号、新民会、1962年、4〜26ページ。
堀口修(監修・編集)『「明治天皇紀」談話記録集成 臨時帝室編修局史料』第一〜九巻、ゆまに書房、2003年。
渡辺幾治郎『明治天皇』上下巻、宗高書房、1958年。
※引用にあたっては、読みやすさを考え、句読点や仮名遣いを改め、改行を行ったところがある。