ナポレオンに侮辱されたラマルク
パリ植物園の入り口には、ジャン=バティスト・ラマルク(1744〜1829)の像がある。ダーウィンよりも65年ほど早く生まれた進化生物学者である。その台座の背面には、ラマルクとその娘であるコルネリーのレリーフがあり、コルネリーがラマルクに言った言葉が刻まれている。
「後の世の人が称賛してくれますわ、恨みを晴らしてくれますとも、お父さま」(注1)

ジャン=バティスト・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck)の肖像画(左)と、パリ植物園にある像 photo by gettyimages
そう言ってくれる娘がいたのだから、その点ではラマルクは幸せだったかもしれない。晩年には失明したし、貧しくて墓も買えなかったけれど、一応パリ国立自然史博物館の教授だったのだから、食べるのに困るほど貧乏ではなかったはずだ。
それでも、やはりラマルクは、科学者としてはかなり不遇だった。当時のフランスの科学界で、絶大な力を持っていた博物学者、ジョルジュ・キュビエ(1769〜1832)に嫌われたのが痛かった。
さらに、当時のフランスで、絶大な権力を持っていた皇帝ナポレオン1世(1769〜1821)にも嫌われ、公けの場で侮辱されたのもつらかった。だから、ここでは少し、その埋め合わせをしよう。当時だけでなく現在でも、ラマルクは誤解されやすい人だから。

ジョルジュ・キュヴィエ(Baron Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert Cuvier:仏)の肖像画
ラマルクといえば、進化論を唱え、そのメカニズムとして獲得形質の遺伝を主張したことが有名である。「ラマルクが獲得形質の遺伝を主張した」ことは間違いではないけれど、あまり適切な言い方ではない。せいぜい「嘘ではない」といったところだろう。それでは、ラマルクが主張したのは、どんな進化論だったのだろうか。