俳優・中村敦夫が、原発に警鐘を鳴らす舞台を演じる理由

「線量計が鳴る」は百回公演を目指す
高木 香織 プロフィール

原発事故の後で「表現者」として何をすべきか

「あっしには関わりのねえこって」


という決めぜりふとリアルな殺陣。それまでの定番ドラマは、ふらりとやってきた旅人が困っている人々を助けて去っていく――といったハートフルなものだった。

1972年(昭和47年)に始まったテレビ時代劇『木枯し紋次郎』は、一見定番ドラマとは正反対のクールな紋次郎のたたずまいが視聴者の心をつかみ、中村氏を一躍スター俳優にのし上げた。

その俳優のキャリアを投げ打ち、1995年(平成7年)の参議院選東京選挙区で新党さきがけ(当時)から立候補するも、落選してしまう。1998年(平成10年)に無所属で再度挑戦し、当選する。

その当時から、中村氏は原発の危険性を訴えていた。中村氏が毎月1回発行していた新聞には、
「安全な高速道路などはないように『安全な原発』などあり得ないのだ」
と書いていた。
その言葉通り、原発事故は起きてしまった。

 

「事故を予見しながら、自分が生きているうちには起きないだろうと思っていた。不覚だった」
愕然とした。

「表現者として逃げられない。正面から取り組まなければならない」と感じながら、ならば、どう表したらよいのか。思い悩む日々が続いた。

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「一から学び直し、問題全体を自分自身の血肉で理解する必要がある」と感じた。 
やがて東日本大震災の発生から二カ月後の、まだ現地の混乱も続く5月。中村氏は福島県いわき市の海岸沿いを車で南下していた。そこは大津波に打ち壊され流されて、がれきだらけのすさまじい惨状になっていた。
いわき市の一部は、福島第一原発の30キロ圏内あり、放射線量が高いために県外に一時避難する人々も多く、人影はまばらである。

いわき市は、中村氏の故郷だ。

第二次世界大戦中、空襲が激しくなってきた東京から、父の実家がある福島県に疎開し、小中学校時代を平市(現いわき市)で過ごした。懐かしい知人も多い。その思い出深い土地は、変わり果てた姿になっていた。


飯舘村や南相馬市も訪れ、自殺者を出した現場にも行った。

中村氏は翌2012年(平成24年)、日本ペンクラブの視察団の一員として、チェルノブイリ原発のあるウクライナを訪問する。そこに福島の数十年後の姿を探した。


キエフの放射線研究所や被ばくした村を回り、今でも苦しんでいる人々に会ってきた。原子炉建屋が吹き飛んだ原発を覆う、不気味な石棺も見た。


資料を読み込み、専門家のアドバイスを受けた。そうやって取材を重ねているうちに、なぜこんなに理屈に合わないことが起こったのかが、次第に見えてきた。

どんどん時は過ぎ、焦りを感じ始めるようになる。しかし、この仕事はライフワークになるだろうと感じ、納得するまで試行錯誤した。


5年後、ようやく心に添った表現方法を思いつく。大げさな企画は、時間も費用も掛かりすぎる。それなら、たった一人で道具を背負い、日本各地で「朗読劇」を展開しよう。原発のある土地で生まれ育ち、原発技師として働き、原発事故ですべてを失った老人の独白を表現するのだ。


その語り言葉を福島の方言に置き換えたとき、このドラマは予想を超えた迫力を生むことになる。

普通なら一カ月もあれば書ける脚本を、3年かけて練り上げた。

そうして、2016年(平成28年)11月、福島県喜多方市において、朗読劇「線量計が鳴る」の初公演が行われたのである。