侮蔑されたい人たちを動員するのが独裁…小林秀雄が見抜いていたこと

近代の平等主義が生んだ病
小林秀雄は近代イデオロギーを徹底して疑った。民主主義と平等主義に内在する危機を正確に予見できていたからではないかと、『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?』で著者・適菜収氏は言う。小林がアドルフ・ヒットラーのナチズムに見出したものは、人間の普遍的な弱点そのものだった。とすれば、現代日本の政治状況が独裁や全体主義とまったく無縁と言い切れるだろうか? 『小林秀雄の警告』からご紹介しよう。
 

知識人の思い上がり

小林秀雄は、現代の知識人は、「科学的という、えたいの知れぬ言葉の力」により思い上がっていると言う。しかし、それは厳密な意味における科学ではなく、「半科学」のお喋りにすぎないと。心理学、社会学、歴史学といった人間について一番大切なことを説明しなければならない学問が、その扱う対象の本質的な曖昧さ、表現の数式化の本質的な困難といった問題について、なんの嘆きもあらわしていない。

彼らは無邪気に言葉を使う。乱暴に数値化、抽象化を行う。そして政治は常識から離れていく。合理主義の徹底は合理の限界に辿り着くが、問題は中途半端な合理である。科学の皮をかぶったイデオロギーである。

現代の一般教養としての合理主義は、合理主義に対する合理的な、或(あるい)は理性に対する理性的な反省を全く欠いている。反省は、物的進歩の蔭にかくれ、現れるのは自負だけだ。歴史の産物という言葉が愛好され、その使用にあまり多忙な為に、人間の理性という機能自体が、歴史の産物に過ぎないという事を、反省する暇がない。──『近代絵画』

小林も参加した「近代の超克」というシンポジウムがあったが、そもそも近代とは「超克」できるようなものなのか? ニーチェは言う。

すなわち、今日でもまだ、あらゆる事物のあとずさりを目標として夢みている政党があるのである。しかし誰でも自由に蟹になれるわけのものではない。そんなことをしても何の役にも立たない、人は前方へと、言ってよいなら一歩一歩デカダンスにおいて前進せざるをえないのである。──『偶像の黄昏』

昔に戻るのが保守ではない

保守は復古主義も否定する。それもまた理想主義の一形態だからだ。よって、右翼は左翼との親和性はあるが、保守との親和性はない。

近代を直視すれば、理想主義が地獄に行き着く一本の道が見えて来る。小林は言う。

近代の毒を一番よく知つた人が、一番よく毒に当つた人だ。それはニイチエを見ればよくわかる。僕はニイチエの事を考へると毒を克服する方法は、毒に当る外はない。毒を避けるといふ様な方法はない。どうもさう思はれる。外国でばかりではない、日本だつて実はさうなのではないか。──「近代の超克」

ここで小林が述べているのは、ニヒリズムの徹底ということだ。ニーチェの議論を振り返っておこう。