ハロウィンの夜、なぜ若者は「渋谷で」ハメを外してしまうのか

祭りを欲望する都会人の精神分析
堀井 憲一郎 プロフィール

アイルランドと津山で同じことが行わていた

ハロウィンと亥の子がだいたい同じ時期なのは、どちらも「秋の収穫が終わり、これより冬の季節に入るときに行う行事」だからだろう。

冬から春にかけて、田畑は休みになる。農家にとって、世界は休みになる。周辺はある種の死の世界に入る。その区切り目におこなわれる祭りである。

赤道から離れた北半球では(あまり離れすぎてもだめだが)、どこであっても似たような自然環境である。だからアイルランドと、岡山の津山で同じことが行われていたのだ。

ハロウィンが近代になっても行われているのは、キリスト教文化のヨーロッパでの僻地ともいえるイギリス国内であった(中心のローマから遠い)。

ハロウィンは「そこかしこに精霊たちがいる」という感覚がもとで行われている。とおもう(たぶん)。それは日本の「八百万の神がいる」というのと同じ感覚である。

そこかしこに精霊たちがいる、というのは、アニミズムとも呼べるもので、とても原始的な感覚だとおもわる。サピエンスが集団で暮らし始めたころから持っていた感覚だろう。

一神教が出現して、それを押しつぶしていった。早い話がキリスト教では、そういう存在を認めない。超常現象はキリストのゴッド(主)が一身に担っており、そこかしこに精霊がいて、小さい超常現象を勝手に行うことは認めない。ゴッド(主)への信頼が揺らぐからだろう。

11月1日に精霊がやってくるという古代信仰を、キリスト教は認めるわけにはいかないので、その日を「諸聖人の日」として、キリスト教の祭日にしようとした。ただキリスト教文化の僻地では、古代信仰のほうが消え去らずに残った。ハロウィンは、その文化を残していたアイルランド人たちがアメリカに渡っても続けたため、アメリカの祭りとなったのである。

 

ハロウィンが渋谷で盛り上がる理由

ハロウィンが世界的に広がっていくのは、都市部での「秋の祭礼」の代替になってるからだろう。

日本の各地にも、いまだに秋祭りがある。

収穫を祝い、冬ごもりに備える祭りである。でもそれは「土地」の祭りだ。

その土地に住んでいないと、基本、参加できない。そもそも農業の祭りである。

都市生活者には秋祭りがない。

10月31日のハロウィンは、都市生活者にとっての、秋祭りとなっている。

普段と違う格好をするというだけで参加できるのだ。どこに住んでいようと関係ない。

どうやら人間は、どんどん寒くなっていき、このあたりで外での活動が厳しくなるという境目で、羽目をはずして騒ぎたくなるようだ。土地に成るものを食べてるかぎり、そのサイクルからは逃れられないのだろう(逆に外に出て遊べるようになる時期にやるのが春の祭りである。キリスト教ではイースターであり、日本では私が見る限り「お花見」がそれを代用している)。

渋谷のスクランブル交差点が「ハロウインの聖地」となるのは、まさに「もっとも都市らしいエリア」だからだろう。都市民にとって「土の香りがまったくしない」というのがこのお祭りの大事なポイントであり、だから「土の匂いともっとも遠いところ」として渋谷スクランブル交差点が選ばれているような気がする。

アイルランドなどの土着の祭りだったハロウィンは、アメリカに渡ったところで、「土着性」を喪くしている。移植されたアメリカの祭りとなり、20世紀のアメリカ的な資本主義とうまく合致し、広まっていった。コマーシャリズムとともにハロウインはある(ついでにいえばサンタクロースのクリスマスも同じである。サンタクロースはほとんどコカコーラの神にしか見えない)。

そういう祝祭は海外にも輸出しやすいのだ。