ハロウィンの夜、なぜ若者は「渋谷で」ハメを外してしまうのか

祭りを欲望する都会人の精神分析
堀井 憲一郎 プロフィール

「門付け」というものが、かつてはよく行われていた。昭和の後半にはまだ見かけた。

何かしらの行事のときに、芸人が家までやってきて祝い言を述べるのである。断るときは、来たときに断らないといけない。祝い事を述べられると、そのあとに祝儀を渡す。落語では、正月の初夢の宝船売りや、節分の厄払いなどにその姿を残している。彼らは気まぐれな神を背負っている。

 

「新住民」も従わざるを得ない

津山でも、すべてのエリアで “亥の子”が行われていたわけではない。

同じ小学校に通っている者たちでも、亥の子をまったくやらない区域の子もいた。たとえば団地住まいの子(団地のあるエリアの子)は、亥の子をやったことがなかった。土がないところでは、ちょっとやれない行事である。農家における収穫の祝いだったからだろう。日本中の多くが農家だった時代は、日本中で亥の子は行われていたらしい(特に西日本で広く行われていた)。

もともとは、秋の収穫祝いのひとつである。刈り入れが終わったころに行われる。

収穫した新米で餅を搗き、それを神に捧げるのがもともとのいわれである。

亥の子石で、収穫後の田畑を搗き固めるのだ。

また、亥の子石を持った子供がまわってくる行事がないところでも、旧暦十月の亥の日は「亥の子」の日として祝い、「亥の子餅」を食べる習慣があった。それは『源氏物語』や「蜻蛉日記」にも見られるという(上記の宮本常一本による)。平安の京でも亥の子は祝われていたのである(亥の子は、つまりうり坊だけれど、多産であるという印象が強く、繁栄の象徴とされていた)。

「亥の日」は平日であることも多い。そうなると、小学校が終わってから、亥の子にまわることになる。

途中で日が暮れるので、みんな、懐中電灯を持ってまわる。

担当のエリアは、小学生にとってはそこそこ広く、ふだん顔を合わさない場所までも行く。

だいたいは古くからの地元民であり、自分たちも子供のころに「亥の子」をやっているので、ああもう亥の子の季節か、と得心して、お金も用意してくれている。ときにお菓子までくれた家もあった(ただ、その家は、べつだん亥の子の日にかぎらず、子供を見かけるとお菓子をくれる家だったらしいのだが)。

一度だけ、この土地育ちではなく、引っ越してきた住人の家を訪れたことがあったという。

あ、こんなところに家がある、この家まだ行ってないぜ、と怖じ気づかずに訪問したところ、案に違わず、新しい住人はそういう習慣をまったく知らず、そんなことをやるのか、と驚かれてしまった。年嵩の少年が説明し、そしてお金ももらうのだというと、当然、いったいいくらぐらいあげるものなのだろうかと聞いてきて、そのへんは少年は正直なので、1000円くらいでいいですと教えて、その金額をもらったそうである。

習慣を知らない人も、従わなければいけない。私は知らないから不必要だ、と追い返せるものではないのだ。土地の行事だから、由来を知らずとも、その土地にいる者は従わないといけない。個人の判断より、土地の力が強いということでもある。 

亥の子石で土を叩くのは、宮本常一によると、鎮魂のためであり、また悪い精霊を連れ去ってもらうためだともする。

また、「もぐら打ち」の意味もあったという。モグラの害を減らすため、田畑の土を叩く、という風習があったのだ。農村らしい行事である。