論文はやっぱり怖くて、むずかしい

あやしい論文はなぜ生まれるのか?
小笠原 喜康 プロフィール

2018年10月10日の毎日新聞の記事によれば、九州大147、東大132、大阪大107、新潟大102、名古屋大99と、ハゲタカ・ジャーナルに掲載されている著名大学研究者の「あやしい論文」がたくさんみつかっている。ちなみに私の大学・日本大学は、おしくも5位入賞を逃して、上記著名大学の後塵を拝し、6位の87本である。日本に関係する論文は、5076本もあるというから、驚きを通り越してしまう。

これはもちろん論文不正とはいえないかもしれない。しかしそうした論文によって、昇進や科学研究費を獲得しているとすると、それは社会に対する背信行為となる不正な論文である。

 

なぜ、不正がおこるのか

だが問題はむしろ、こうした数々の不正ではない。なぜこうした不正がおこるのか、その背景がより重要である。もちろん、競争的研究資金を獲得する厳しい状況が、問題の背景にあることは承知している。しかし研究資金の問題は、ここでは問わない。というのも、たとえそうであっても、論文不正の言い訳にはならないからである。

ここで問いたいのは、拙著でいう「不正ではないが温床になっている研究姿勢」である。なかでも、「問いになっていない(批判と主張がみられない)」と「主張が主張になっていない(問題を明確にしていない)」が、一番問題である。主張は、勝手な意見ではない。それは、先人の考えを批判的に受けつぎ、現在における問題を明らかにすることである。主張がないと、次の二重のレベルでの不正につながることになる。

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まず一つは、なんといっても、なにかを主張して論文を書くことは、私たち研究者という仕事の社会的責任だからである。これを果たさなければ、いってみれば契約不履行である。もっと厳しくいえば、背任であって、道義的不正を犯していることになる。

もう一つは、より直接的な不正の引き金になるという意味で問題である。自分の研究に明確な主張がないために、それを覆い隠そうとして、いわゆるデータ改ざんに手を染めることになるからである。

自分を良く見せようとすると、不正の魔が忍び込む

自分の主張を明確にすることは、論文を書く者が社会から求められている、もっとも重要な責務である。それは、研究者ではない学生でも基本的に同じである。論文を公表するかぎり、先人の仕事に敬意を持って批判する社会的責任がそこには伴う。

どんな研究、どんな論文であれ、それは私たちの世界を少しでも良くするためにある。私たちの日常にかかわっていない研究などない。もしあるなら、それは研究ではない。なぜなら、私たちは、社会のために研究しているからである。昔のヨーロッパの研究者のように、神様のために研究しているわけではない。

私たち研究者は、論文を書いて社会に貢献するのが仕事である。それは、文系でも理系でも同じである。このあたり前のことが、最近忘れられているのではないだろうか。

かくいう筆者自身、すべての論文で「ほんとうのところはどうなんだろう?」という気持ちを忘れたことはないか、と問われれば、やはり自信がない。しかし少しでも自分を良くみせようとしたり、いいにくいことを曖昧にして明確に主張することを避けようとすると、そこに不正の魔が忍び込む。

「ほんとうのところはどうなんだろう?」という気持ちと、「社会のために研究をする」という、もっとも基本で、もっとも重要なことを少しでも忘れると、そのわずかな気持ちの隙間を魔はみのがさない。

拙著『最新版 大学生のためのレポート・論文術』は、「大学生のための」と謳っているが、ほんとうのところは筆者自身の自己反省のためである。論文は、あいまいにしていると、必ずそこを評者は突いてくる。難しいからとそこを避けようとすると、必ずあとでその問題につかまって、そこを本格的に探求しなくてはならなくなる。

論文を書くというのは、とてもとても怖いことだと、70の古希を目の前にして、あらためて思う。