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18代目勘三郎が起こした「革命」は一代限りで終わるのか

平成歌舞伎を振り返る

平成歌舞伎の起点

2018年も、あと2ヵ月。平成はあと6ヵ月となった。

30年という、それなりに長い平成時代の歌舞伎を振り返る作業をしている。

平成が始まった1989年、「戦後第一世代」と呼ばれた、11代目團十郎、初代白鸚、2代目松緑、17代目勘三郎、6代目歌右衛門、7代目梅幸のうち、團十郎、白鸚、勘三郎はすでに亡くなっており、松緑も平成元年6月に亡くなる。舞台に立っていたのは、歌右衛門と梅幸だけだった。

この時点で歌舞伎座の座組の中心になるのは、第一世代の息子たち、すなわち2代目白鸚(当時、幸四郎)、7代目菊五郎、2代目吉右衛門、12代目團十郎、4代目松緑(当時、辰之助)たちだった。彼らを18代目勘三郎(当時、勘九郎)と10代目三津五郎(当時、八十助)が追う。

ちょっと別のところに、玉三郎と15代目仁左衛門(当時、孝夫)、そして二代目猿翁(当時、三代目猿之助)がいた。

歌右衛門、梅幸以外にも戦後の名優は何人もいた。当たり前だが、平成初期は「昭和の名優の最後の日々」でもあり、21世紀に入った平成13年の歌右衛門の死で、「歌舞伎の昭和」は終わったといえる。

将来、「平成歌舞伎」と呼ばれるようになるとしたら、それが本格的に始まったのは、歌右衛門の死後、21世紀になってからだ。

歴史というのは歌舞伎に限らず、「事件」が中心となる。毎月、父や先輩たちから継承した型を守り、古典を破綻なく演じている役者によって、歌舞伎の日々の興行は支えられ、伝統は継承されていくが、そういうのは目立たない仕事となってしまう。

これまでにない新しいことをすれば話題になるので、「歴史」が、時々の「事件」「話題」を記すものだとしたら、「平成歌舞伎史」に最も多くのページが割かれるのは、18代目中村勘三郎になるだろう。それを、市川海老蔵と市川猿之助が追う。

 

18代目勘三郎が直面した歌舞伎の危機

18代目勘三郎は、他の役者と何が違ったのか。

決定的な違いは、役者としての才能や人気とは別に、プロデューサーとしての才覚があったということだ。

17代目勘三郎が亡くなったのは、1988年4月、昭和でいうと63年にあたる。息子18代目(当時は勘九郎)は、33歳になる年で、その若さで一門を率いていかなければならなくなった。息子たちはまだ幼い。自分の家と中村屋一門の将来はどうなるのか。そういう状況での父の死だった。

しかし、もっと大きな問題が彼の前にはあった。「歌舞伎の興行的な危機」である。

現在の歌舞伎座〔PHOTO〕gettyimages

1985年の12代目團十郎襲名で、歌舞伎興行はかなり盛り返したのだが、88年の時点で、8月と12月の歌舞伎座は歌舞伎を打てず、他の興行をしていた。

現在でこそ歌舞伎座は1年12ヵ月を通して歌舞伎興行を打っているが、昭和末期はそうではなかったのだ。理由は簡単で、歌舞伎を上演しても客席が埋まらないと思われていたからである。

歌右衛門は、功成り名遂げ、芸も極め、文化勲章も得て人間国宝でもあり芸術院会員でもあり、客が入ろうが入るまいが、どうでもいい。自分のやりたいものだけをやっていた。

しかし若き勘三郎はそうもいかない。この先何十年も歌舞伎興行を続けてもらわなければならない。そのためには、自分と同世代の観客の獲得が必要だった。