韓国の民主主義はなぜ「脆弱」なのか〜強権的な政権が生まれる構造

映画『1987』から考える
真鍋 祐子 プロフィール

たとえば、朴正熙が政権を獲得した1961年5月16日は、朴槿恵の歴史観では朴正煕による「革命」だが、民衆史では「クーデター」とみなされる。1980年5月18日の光州事件は前者では「暴動」「事態」だが、後者では「義挙」「民主化抗争」となる。つまり、対抗しあう二つの史観では、ある出来事への意味付与がオセロのようにひっくり返る。

 

いみじくも「1987」に登場する、朴鍾哲の父親(実在の人物をモデルにしている)が、1990年代半ばに私に語ってくれた言葉がある。

「歴史なんて紙切れ一枚のことだ。こっちの歴史は明らかにこんなふうに歩んできたのに、あっちではそうじゃないと言う。一夜にして変わるもんだ。ならば全ての歴史は正しく記憶されなくちゃいけない」

「こっちの歴史」と「あっちの歴史」が準拠する二つの国家観は、金泳三時代になされた光州事件の名誉復権を機に、対抗的に並立するようになる。

金泳三元大統領〔PHOTO〕Gettyimages

1997年、民主化への第一歩となる光州事件が勃発した5月18日が国家記念日に制定され、犠牲者たちが眠る望月洞墓地は「国立5・18墓地」に昇格された。その結果、殉職した軍人を祀る国防省管轄の「国立忠顕院」と、軍人に抵抗して闘った死者を祀る「国立5・18墓地」が、ともに国家に殉じた死者を顕彰する聖域として併置されることになった。

だが、両者がそれぞれ命を捧げた「国家」という対象は、互いに相容れない国家観に依拠している。一方は共産主義の同胞国家・北朝鮮と厳しく対峙する分断国家・大韓民国に殉じ、もう一方はきたるべき理想の国家、「統一祖国」のために殉じたとされる。

こちらで祀る友軍(英霊)があちらでは敵軍であるという二律背反について、倫理学者の金杭は「国家の追悼が〈友/敵〉区分を宙吊りにしている」と表現する。つまり、二律背反した国家の追悼行為のせいで、死者たちは国家にとって友軍であり、かつ敵軍という両義的存在、どっちつかずの状態におかれている、ということだ。その原点が金泳三時代だった。

相互の勢力の「並行関係」はその後も続いていく。こうして1980年代の終わりからじわじわと復権してきた朴正熙の人気は、「成長」「明るさ」「豊かさ」などのイメージを伴って1990年代にはうなぎのぼりとなる。

そうしたなか、長らく謹慎していた朴槿恵も1998年に政界入りをはたす。他方、光州事件の名誉復権で勢いづく民主化運動勢力は1998年に金大中政権を成立させ、さらに韓国初のろうそくデモによって盧武鉉を大統領に押し上げた。

左右それぞれの「揺り戻し」を乗り越えて

「タクシー運転手」や「1987」の制作が始まった朴槿恵政権末期は、反民主的政権に抵抗するろうそくデモの印象で語られがちだが、これは「記憶の闘争」の作用-反作用の過程として、もう少し長いスパンで捉える必要がある。

金泳三政権の1990年代半ば、対抗的な国家観に基づく死者の二つのカテゴリー(軍人と、軍人に対抗して死んだ者)が、どちらも等しく「国家」に殉じた「英霊」として祀られ始めた。〈友/敵〉に区分され、左右に宙吊りにされた死者たちの均衡関係は、進歩政権の10年間で大きく左に傾斜した。その揺り戻しが李明博政権の保守反動化として表出し、朴槿恵時代に大きく右に振り切れたとみるべきだろう。

まだしも李政権の時代には、分断暴力は一般市民の目に触れにくい場所で陰湿に行使された。デモ隊に浴びせる放水銃は誰も殺すことなく、ソフトに群衆を駆逐した。

ところが朴政権の時代になると、セウォル号事件の真相究明を求める遺族たちを弾圧し、デモ隊の老人に放水銃を執拗に浴びせて死に至らせるなど、分断暴力の本質がついに地金を表わす。そこに「崔順実ゲート事件」が追い打ちをかけ、朴槿恵政権は自壊したのだ。ろうそくデモはその最後の一押しだった。