韓国の民主主義はなぜ「脆弱」なのか〜強権的な政権が生まれる構造

映画『1987』から考える
真鍋 祐子 プロフィール

では、朴鍾哲事件で明るみになった拷問はどうか。それは一般国民の関心から遠い存在である脱北者を標的に、高い塀に囲まれた国情院の密室で、いわば二重の死角の中で物理的な暴力そのものとして行使された。その実態を被害者が初めて告発したのは朴槿恵時代の2013年のことである。これは、かつて朴正煕政権が在日韓国人留学生たちを標的に捏造した数々のスパイ事件の焼き直しである。

韓国の民主化は、なぜ「漸進的民主化」とならざるをえなかったのか。それは骨の髄までしみついた権威主義的な政治文化が、民主化の内面化を阻んだからだ。権威主義に立つ軍事文化の積弊は独裁時代の残滓である。

しかしこれは遡れば、日本帝国主義の残滓でもある。1945年の解放後、分断の混乱をへての国家再建過程で、日本統治時代の遺制とともに軍隊や警察にはびこる暴力的体質が、韓国の軍隊や警察にそのまま相続されたのだ。

 

並行し続けた歴史観

韓国のこれまでの30年間は、自国の現代史をどのように捉え、記述するか、その姿勢が争われた日々でもあった。そこでは正反対の二つの歴史観が並立し、一方の見方が力を得るか、それとももう一方が優勢になるのか、その狭間を揺れ動いてきた。

ところで、かつては朴槿恵も言論を抑圧された側だった、といったら、驚かれるだろうか?

1979年の朴正煕大統領暗殺の後、沸きあがる民主化の機運を武力で押しつぶし、光州を捨て石に全斗煥が権力の座についたのは誰もが知る事実であろう。

一方、彼にはクーデターで成立させた政権の正統性をアピールし、盤石なものとするために、「旧時代の誤った気風を果敢に清算」(大統領就任辞)するとして、前政権からの差異化を強調し、朴正煕の背後にいた旧軍部の影響力も排除する必要があった。朴政権の旧軍部に対し、全政権を支える勢力は新軍部と呼ばれた。

旧軍部排除の過程で、青瓦台を去った娘の朴槿恵もまた、自身の支持団体を強制解散させられた。彼女は、子として父の遺業を整理し、父に着せられた汚名をすすぎ、「祖国の近代化」に貢献した功績面が正当に評価され、後世に伝えられることを望んだが、そうした作業を物心で支える支持団体を失い、挫折する。

このように子が亡き親に対して行なう「追慕事業」は、孝倫理が規範化された韓国ではごく自然な顕彰行為だ。彼女の視点に立てば、それが妨げられるのは子として慙愧に耐えず、人権の抑圧とさえ感じられたかもしれない。

支持団体の再結成が許され、追慕事業が始動したのは1988年。民主化運動勢力とひとしなみに朴槿恵もまた、民主化宣言の恩恵で言論の自由を得たということだ。

朴正煕元大統領〔PHOTO〕Gettyimages

こうした「名誉の復権」のため、過去30年の間、左右勢力はともに自分たちの「歴史」を描き、正統性を争ってきたが、互いの歴史観は平行線をたどり続け、統合されずにきた。

光州事件以後、地下に潜っていた民主化運動勢力は、分断状況下で抑圧と暴力、軍事文化に踏みしだかれた「民衆」という存在に光をあて、「南韓・反共イデオロギー」に依拠する既存の「国史」に対抗して、分断と分断暴力を否定する反米民族主義的な「民衆史」を定立した。この歴史観は金大中と盧武鉉の進歩政権の誕生を後押しした。

同じく抑圧されて同時代をすごした朴槿恵も、追慕事業を通じて父の名誉を取り戻そうと踏み出した。これはやがて朴正煕時代を正統化する歴史意識に連なるものだが、自叙伝によれば、彼女がそれを強烈に意識するのは「理念路線も国家観も異なった」盧武鉉政権時であり、「歪曲された歴史を正す」とまで言い切っている。

当時、分断状況の淵源に日本帝国主義を位置づけ、植民地主義批判の立場から親日派の清算が推進されていた。満州国で将校を務めた経歴をもち、1965年の日韓条約を強硬に進めた朴正熙も対象とされた。

後に大統領となった朴槿恵は2017年11月14日の朴正煕生誕100年を期して、李明博時代を通じて台頭してきたニューライト系の学者を動員し、歴史教科書国定化に着手する。当然、これには進歩派の学者や教師たちが猛烈に反対した。

いってみれば、朴槿恵がめざした「国史」と民主化運動勢力の「民衆史」は、同じ時代に萌芽し、地下に潜り、そしてまた同じ時代に地上に芽を出し、正史の座を争ったのだ。

これは対抗的な理念路線と国家観に依拠した「記憶の闘争」である。